丹波 余田城



ファイルNo3743


               主郭手前の堀切             

@ よでんじょう 
  別名  

A住所:丹波市市島町上鴨坂
    旧:氷上郡市島町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・土塁
G時代/人物:鎌倉期?/余田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2021年06月

  

道案内 

舞鶴若狭自動車道の黒井インタを下りて国道175号線へ右折します。 約9km先の市島支所前の信号です。ここよりさらに約3.5km先の八日市の信号で左折し県道282号線に入ります。約5.5km先、(前山川の橋から約1.65km先)で右折し坂を登ると宗福寺です。宗福寺左手の墓地の一番上の西側に鉄塔の管理用道路のゲートがあります。ここから入るか、寺からもう少し西側(県道の寺への入口から約100m先に山への道があります。ここを登るかして尾根まで行きます。

訪城備忘録

宗福寺背後の鉄塔を目指します。鉄塔用管理道のゲートは厳重に縛ってあるため入りにくいです。もうひとつの山越え道から行った方がよさそうです。尾根まで登ったら右手の鉄塔側に行きます。鉄塔周辺も西の城の一部であったようです。

その先、繁みを越えると小郭があり、その東下に堀切の痕跡があります。ここから尾根を東側に進みます。他のサイトを読むと尾根上が藪と書かれてますが、まったく藪は無かったです。これは数年前にここの斜面が土砂崩れがあったのか今は斜面補強工事がされてます。これの影響でしょうか?尾根上がほんとに綺麗です。 

尾根を進むと綺麗な切岸が見えてきます。東の城の西端の郭です。郭に上がると低土塁がU字に巡っています。ここからまた平坦地の尾根が40mほど続きその先に主要部端の堀切と切岸が見えてきます。奥に主郭の切岸も重なり美しいとすら感じた光景です。切岸を登ると主郭下の北側副郭です。副郭はそのまま主郭の西下に延び、主郭南下に廻っています。この南側郭から主郭に上がる坂虎口のようなスロープが付いています。あまりに綺麗すぎて後世のものかなとも思えます。

主郭内は長方形という感じの平坦地です。土塁などは無い感じです。主郭の北側の東側に北側副郭と繋がる虎口がある感じですが明瞭とは言えません。南副郭の数m下にもうひとつ郭があり、ここには社が建ってます。「熊野三社大権現」と書かれてます。ここから南東側へ道が付いています。つづら道で参道なんでしょうけど中腹下で道がわからなくなりました。とにかく麓まで下りてゲートを探して外に出ました。山の東下の道へ出ました。

歴史
主郭南東下郭の社


元暦元年(1184年)、余田又太郎為綱が関東より移住し上鴨坂に住したとされます。築城時期は不明です。余田城の遺構は戦国期のものです。元弘三年(1333年)、足利尊氏の挙兵に従った武将の中に余田氏の名前もあるようです。戦国期に入り、赤井氏に従い、天正三年(1575年)〜天正四年の明智光秀による丹波攻めの際は萩野直正<黒井城主・丹波の赤鬼>に従ったとされます。天正六年(1578年)、再度の明智光秀の丹波攻めの際に明智光春に攻められ落城し余田監物為家は自刀、余田一族は帰農したようです。余田城はいったん廃城になりましたが、天正十二年(1584年)、小牧長久手の戦いの際に徳川家康方として赤井氏残党がこの城に籠城したともされます。宗福寺には「余田又太郎源藤原為綱が来住、余田左馬頭監物藤原為家が天正六年二月二十一日没」と刻まれた供養塔があるようです。

尾根上の切岸    主郭の切岸
地理院地図より(青色は走破ルート、緑が城域)
前山川の橋越しに城跡
目標の鉄塔 左下の屋根は宗福寺     東の城跡方向       
東郭
   尾根上      尾根上の郭の切岸
尾根上郭と土塁
尾根上郭土塁
尾根上郭背後主郭方面尾根
主郭手前郭下堀切と切岸
主要部手前堀切
主要部手前堀切
主郭下郭から主郭切岸
    主郭切岸と主郭下郭
主郭切岸と主郭下郭
主郭切岸と主郭下郭
主郭坂虎口?     主郭内
主郭下郭
西尾根遺構(西郭)
西郭内     西郭内から堀切
西郭下堀切と西郭

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