道案内 ←城跡 ←登り口 |
舞鶴自動車道の春日インタから北近畿豊岡自動車道の春日和田山道路、和田山八鹿道路と進みます。養父インタで下り、県道6号線を北に向かいます。4km先の上箇の信号で国道9号線を横切ります。400m先の信号で左折し国道312号線に入ります。約11km先、上小田北の信号で戻るように逆V字で右折します。上小田橋を渡ると坂本の信号です。県道2号線は右折ですが、この信号で左折します。約1.6km先、橋の手前で右折します。約200mで左折し橋を渡って山裾を進みます。約700m先左手が花岡神社です。
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訪城備忘録 |
登城口は城跡の南東の花岡神社の裏手斜面を登ります。道というほどではないですが先人の足踏む跡があり、ところどころの木に赤いテープが巻いてあります。比高で110mほど直登に近いです。登りきりと弓状の尾根に出ます。尾根上はほとんど夏草はないです。尾根左手(西側)を見ると斜面の先に副郭の切岸が鋭い角度で見えます。副郭切岸手前は窪みがあり堀切のようです。副郭は大きな長い郭です。南側が一段高くなっていて下から見ると土塁のように見えますが、上に上がると幅のある郭でした。その主郭との境も窪地になっていて堀のようです。主郭もけっこう広い空間でした。主郭の西側にこの城の見所の三重堀切があります。主郭下の堀切が特に明瞭です。三重堀切の先にも郭がありますが、小郭ですので行きませんでした。城ある山の北西側麓にある浄念寺はこの城の居館跡と言われるようです。地図を見ると浄念寺の南側から東方向に小道が延びていますので、ここを通って山尾根の鞍部まで行って斜面を南西に向かって登ると城跡に到達するのかもしれません。
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主郭
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築城時期、築城者は不明のようです。伝承では城主は橋本兵庫という人物です。兵庫は阿波三好氏の家臣の中島氏で、但馬に逃れて橋本氏を名乗ったそうです。天正五年(1577年)、羽柴秀長(秀吉の弟)が但馬に侵攻したのを、宿南城の宿南輝直、朝倉城の朝倉大炊、宮垣三方城の三方左馬之助、・国分寺城の大坪亦四郎、上郷城の赤木丹後、浅間城の佐々木近江守、坂本城の橋本兵庫らが迎え撃ちしました。これを小田野の合戦というそうです。但馬勢は敗れ、橋本氏は帰農したようです。 <養父市ホームページ参考>
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