道案内 ←城跡 ←登り口 |
舞鶴自動車道の春日インタから北近畿豊岡自動車道の春日和田山道路を進みます。山東インタで下り、下りたところで右折します。500m先を左折し国道427号線に入ります。約4km先の大垣の信号で右折し国道9号線に入ります。約2.2km先を斜め左折するか、さらに900m先を逆Vで左折します。この国道の左の道が集落の道で途中の大内集落センサーの裏手高台に磯部豊次と波多野秀光の墓があります。城跡は集落の端、国道から逆Vで入ったところの丘の先端にあります。丘を正面に左手に民家があり、民家と丘の間に小道があって斜面の墓地に至ります。この裏手をさらに登るとすぐに城跡です。
←磯部豊次の墓
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訪城備忘録 |
城跡は麓からでも比高で30mほどの丘陵尾根の先端にあるという感じです。東下から四郭、三郭、副郭(二郭)、主郭と続き、北東側にも段郭があります。主要郭の4つはわりと広く、特に副郭は主郭より大きな空間で一部土塁が残ります。土塁は往時にはどの辺まであったのか? 切岸も高く、主郭と副郭も高いんですが、副郭と西下の通路状のところとの切岸は特に高いです。主郭背後の尾根側に堀切があります。この城の見所は畝状竪堀です。西側斜面に堀切から落ちる竪堀と副郭そばの竪堀を合わせて7条の竪堀が並んでいます。深くて長い大きな竪堀が並んでいます。
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堀切の土橋?
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天文年間(1532〜55年)、磯部豊次が城主として入リました。豊次は山名氏一族で、山名上野介の子とされます。幼くして出石の山名佑豊に預けられ、波多野秀光に養育されたとされます。長じて、兄の豊直は夜久野城に豊次はこの城に入ったとされます。羽柴秀吉の但馬攻めの頃<天正五年(1577年)>に磯部に改称したらしいです。兄の豊直はその後秀吉勢に従い景石城主となります。豊次はこの地にとどまり、江戸期に入り子孫は福知山城主有馬豊次に従い、有馬氏が久留米に転封されるとそれに従ったとされます。豊次はこの地で没しました。
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