但馬 | 金蔵寺城 |
ファイルNo3327 |
@ こんぞうじじょう |
道案内 ←登り口 ←城跡 | |||
舞鶴若狭自動車道の福知山インタで下り、国道9号線を市内に向かいます。約15Km先、野花の信号で右折し国道426号線に入ります。約28km先、出合のT字信号で国道428号線に右折します。5km先左手に「亀ケ城」の大きな標識があります。そこからさらに約3.5km先、畑山橋南詰を直進し、150m先の後坪の信号を左折し県道2号線に入ります。約2.4km先、右に「金蔵寺跡入口」標識、左に地蔵のあるところを右折します。400m先のアスファルト道終点右手に駐車スペースがあり、ここより徒歩で向かいます。 |
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訪城備忘録 | |||
但馬一の山岳寺院、城郭寺院のようです。相当の山中であり、道もはっきりしません。ひとりで行かれるのは避けた方がよろしいかと思います。林道入り口から直線的なダート道をどんどん登ります。2km先くらいかな比高で100mほど登ったところに石仏様があります。ここで左右に谷は分かれていて明瞭な道はここからはないです。右の谷に入ります。細い谷で沢のような感じです。道らしいものはないんですが、ここを1km先突き当たりまで行きます。ここから斜面をつづらで登り尾根に登ります。左手方向に進むと南西尾根の郭群です。大きな土塁のある郭などを越えると本堂下です。<写真での道案内を下段に作りました> 当日は石仏の場所で左に行ってしまい、斜面を比高で100mほど直登になりました。畝状竪堀の下に出ましたが。 この城郭寺院は寺があったところを中心に登り道の南西尾根、本堂の東から南東に広がる坊群、南東尾根部分、及び、本堂の北側上、山頂部分にある詰城に区域分けできます。登城道沿いの南西尾根には先端に現在は道になってる堀切があり、その上に大きな土塁を持つ郭があり、さらに2段の郭を越えると本堂です。本堂から東側、南東側にはいくつもの坊跡であろう平坦地があります。坊跡の南側の尾根には5つの堀切が切られた細尾根があり、その内二つには土橋が架かってました。南尾根からの侵入者に対応しています。北側の詰城は本堂との比高が30mほどある感じです。本堂東側の切通のところから北に向かって登ります。詰城領域手前で堀切があります。詰城は山頂部に3つの郭があり、その3つを取り囲むように帯郭が周囲を巡ってます。3つの郭の真ん中の郭には白山神社があったようですが、今は倒壊して社殿の木材が散乱しているという感じです。詰城の南斜面と北西斜面にはやや薄いですが畝状竪堀があります。詰城北東端には土塁があり、この下に二重の堀切があります。さらに、北西の畝状竪堀の下(比高で30mくらい下)の尾根に小さな堀切と土橋がありました。 大変城域の広い城郭寺院であり、詰め城の畝状竪堀、南東尾根の連続堀切は、城郭化したというのがよく痕跡が残ってます。ただ、近くの亀ケ城、あるいは、楽々前城の方が遺構としてはいいですね。 |
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金蔵寺は弘仁年間(810〜818年)に空海が開いたとされるそうです。史料には、戦国期<大永八年(1528年)、金蔵寺僧兵が所領の争いで雲厳寺を攻撃したと伝わります。金蔵寺が衰退したのは古文書では、永禄十一年(1568年)、織田信長方の森成利(蘭丸)に焼き討ちされてとされるようですが、蘭丸は永禄八年(1565年)生まれとされますので年齢的に無理であり、この時期に織田氏はまだ但馬まで侵攻していないため、間違いであろうとされていて、天正八年(1580年)、羽柴秀長の第二次但馬侵攻の際であろうとされます。 |
南東尾根遺構 |
詰城 |
道案内 |
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