道案内 |
舞鶴若狭自動車道の黒井インタを下りて国道175号線へ左折します。約6Km先の坂の信号で斜め右の国道175号線の新道を進みます。約2.4km先の城山トンネルを通ります。トンネルから800m先が穂継の信号、約800m先の橋の先左手の丘陵が城跡です。国道に城跡の標識があります。小さな川の手前側左に入ると道なりに集落に入ります。手前川沿いに小さな公園があります。この集落側に登り口探しましたが無いですね。車はこの辺に停めて、国道を丘陵の反対側に行きます。加古川沿いの国道を100mほど行った左手に空き地があり、この山側の真ん中がやや開放された感じになっていてここから斜面をジグザクに登って尾根先端まで登ります。尾根先端から城跡です。
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訪城備忘録 |
2017年に登り口がわからず断念した城跡でした。2018年再度チャレンジしましたが、結局登り口がわからず斜面をよじ登る羽目に。よじ登ったのは集落側からでしたが、降りてきたのは反対側の加古川沿いの国道のところ、まだここから登ったほうがいいですね。(道案内通り) さて、城跡ですが、尾根先端に小さな真四角なコンクリートがありました。これは祠かなんかの跡のようです。ここから斜面に向かって登ります。切岸を超えて段郭を進むという感じです。(訪城時は逆からきましたが) 最高点と思われるところが主郭です。主郭は時期もあったでしょうけど藪がきついんでそれ以上南には行きませんでしたが、南の斜面にも土塁、段郭、竪堀があったようです。主郭下東側に大きな竪堀状の窪みがあります。大きすぎる感もあります。主郭下の郭との切岸は高く美しいです。この先、もうひとつ段郭を超えると、<尾根先端(先ほどのコンクリート台座があったところ)の間に> 明瞭な堀切が1条あります。両端は竪堀で落ちています。なかなか明瞭な堀切・竪堀です。さらに、段郭を越えると堀切と片堀切が連続している箇所が一か所あります。段郭の切岸も高い箇所がありました。草木はやや多かったんですがしっかり遺構は残ってました。
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国道の標識
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南北朝期の高見城山の仁木氏の支城ともいわれますが詳細は不明のようです。戦国期に入り後屋城の赤井氏の支城であったようです。天文二年(1533年)、細川政元に属した赤沢景盛が城主でありましたが波多野氏に攻撃され落城しました。その後、穂継壱岐守が城主でしたが、天正七年(1579年)、明智光秀の丹波侵攻の際に攻撃され落城しました。
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