淡路 白巣城



ファイルNo3024


             中央の堀切

@ しらすじょう 
  別名 三野畑城 

A住所:洲本市五色町鮎原三野畑
    旧:津名郡五色町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:220m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・竪堀・土塁・石積み?・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/安宅氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から10分

J撮影・訪問時期:2015年11月

  

道案内 ←駐車場   ←城跡

神戸淡路鳴門自動車道の洲本インタを下り、県道125号線から、県道48号経由、または、県道465号線経由で進みます。約13km先、県道48号と465号が合流時点からさらに県道48号線を1.6km先で左折します。(角には城跡の案内標識があります) 1.2km先を左折し、すぐをまた左折します。(要所要所に案内標識があります) その先は90°左折のカーブで、ここから約3kmの林道を登ると城跡の駐車場です。

訪城備忘録

県道から集落に向かって進みますが、要所に城跡案内板があるため迷いはしないと思います。三野畑集落の背後から山道に入って行くのですが、山道の入口にゲードがあり、これを開けて入ります。山道はアスファルト道ですが、1車線しかなく、また、待避所も途中にないためもし対向車があるtと苦労しそうです。駐車場は相当に広い駐車場で少し驚きます。^^;ここから坂道を少し登り、階段を登ると中央の堀切が目の前に現れます。この堀切は深く明瞭です。反対側から見てもなかなかいいです。この右手斜面は主要部からの斜面ですが、ここに2ケ所ほど石積みの痕跡が見られます。中央の堀切の箇所から右手に行くと主要部です。主要部に入る手前で左手に進むと馬繋ぎ場とよばれる郭があります。明瞭なL字の土塁が残り、右端には虎口があり、その外側は急な斜面ですが、往時は先山への道があったようです。戻って主要部に入る所は坂虎口になっており、右手に土塁が残ります。右手に西の丸(郭)、左手が主郭の峰になりますが、その間は鞍部となり、今は公園風になっています。往時は居住区になっていたんでしょうか? この鞍部の北側斜面端には石積み痕跡も認められます。 西の丸(郭)には城址碑があり、西側への眺望もよいです。 この西の丸(郭)から斜面を下りた先に尾根が延びていて小さいですが明瞭な堀切も見られます。鞍部の反対側は主郭です。北側斜面には堀切もありますが、急斜面でありましたのであきらめました。 戻って、中央の堀切を越えて反対側に登りますと米蔵と呼称される土壇があります。さらに進みますと東の丸(郭)の堀切に至ります。これもなかなか明瞭です。さらに斜面を登ると東の丸(郭)でL字の郭です。東端に低い土塁が残るとともに、L字の内側には竪堀も認められますが双方不明瞭な感じです。城内ではここが一番眺望がいいです。四方を見渡せます。南側へ細尾根が伸びており、その先には小郭があるようですが、行きませんでした。 城域はそんなに大きくは無い城ですが、地形変化が多く、遺構も明瞭で興味深い城跡でした。

西の丸(郭)にある城址碑
歴史

築城時期、築城者は不明のようです。ただ、安宅氏系の城であることようです。永正十六年(1519年)に淡路守護細川氏が滅亡、三好氏が勢力を伸ばし、その勢力下、安宅氏も淡路各所に城郭を構えました。 その主な城郭を安宅八家衆の城と言い、白巣城もそのひとつです。しかし、三好氏が衰退するとともに安宅氏も衰退、天正九年(1581年)の豊臣秀吉の淡路侵攻において、淡路国人衆は悉く降伏しましたが、白巣城の安宅冬秀は秀吉に抵抗したため、火攻めにより落城したとされます。 (現地案内板より)

 
馬繋ぎ場と呼ばれる郭とL字の土塁          東の郭の堀切
現地案内板より
眺望
  
中央の堀切を裏手から      主要部斜面の石積み痕跡
外側から    主要部への虎口     郭内から
馬繋ぎ場と土塁
西の丸(郭)  主郭と西の丸(郭)の間の鞍部   主郭
西の丸(郭)南下竪堀状    西の丸(郭)西下尾根の堀切
米蔵と呼ばれる土壇    東の丸(郭)の堀切
東の丸(郭)
東の丸(郭)からの眺望       東の丸(郭)から南に張り出した細尾根

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