播磨 長水城



ファイルNo2932

山上に総石垣の主郭に驚きの城

                            

@ ちょうずいじょう 
  別名 広瀬城 

A住所:宍栗市山崎町五十波(いかば)〜上牧谷
B目標地点:長水山 信徳寺
C形式:山城  D比高:450m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・堀切・竪堀・土塁・碑・説明板
G時代/人物:室町期/赤松氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  搦め手口山中登城口から40分(比高200m)

J撮影・訪問時期:2014年01月

  

道案内 ←搦め手登り口  ←城跡

中国自動車道山崎インタを下り、国道29号線を北に進みます。約1.2km先、今宿北の信号を左折し県道429号線に入ります。400m先の十字路で県道は右折で、右折します。800m先で伊沢川を渡り、県道はやや左に進みますが、やや右手の道に入ります。300m先に十字路で(角は公民館)、そのまま直進します。100m先で右折し林道に入ります。すぐに右手に池があります。林道を約3km進むと山中に駐車場があります。 ここが登城口です。
 
訪城備忘録

この城、比高も高いんで覚悟の上で登城です^^;  大手は伊水小学校側で距離は短いですが比高は450mと言う事は相当に急な道のりのようで、60分ほどかかるようです。2015年3月までは工事通行止めでした。搦め手道は距離は長いですが、比較的なだらかで、山中駐車場から40分ほどで到達します。標識には駐車場から1kmと書かれてますが、それ以上あったように思えます。なだらかとは言え、けっこうきつかったです。途中、明瞭な岩場の井戸があり、今も水が満々とありました。 城域が近づくと斜面に残存した石垣があります。 最後の坂を登ると視界が開けます。東郭群の先端に出ます。この周囲はお寺と民家の畑になっており、側面には石垣が連なります。ここにお住まいとはすごいです。^^; 主郭周囲はりっぱな石垣で固められています。縄張り図からすると、頂上の北側下は姫の郭とそこまでには小郭が連なるようになってますが、見た目は崖でした。とても下りられそうにないので断念です。主郭の尾根に続く南側の先には砲台状の二の郭があり、さらにその南側には岩場の堀切、その先に南郭があり、その際は崖です。三の郭には南郭からは無理で、いったん東郭群の民家のそばまで戻り、搦め手道から分岐している小道に入ります。主郭を右手上に見ながら進むと南郭の崖の下に堀切があります。さらに進むと大手道の分岐が右手にありました、その先から三の郭群となります。ゆるやかな登りを過ぎたところが三の郭の中心で、ここから下りになります。三の郭の中心から両サイドに段郭を数段なります。三の郭の南端のほうに浅い堀切、郭をはさんで明瞭な堀切が確認できます。三の郭群は典型的な連郭式の古いタイプの城跡で、主郭周囲とは一城別郭を構成しているようです。


伊水小学校側の城址碑
歴史

南北朝期(文和年間(1352〜56年)前後)の頃に赤松則祐(赤松円心の三男)が築き、兄の範資の次男の広瀬師頼が在城し広瀬氏が4代続きました。嘉吉の乱(1441年)で赤松氏はいったん没落しますが、この時、広瀬親茂が城に籠りましたが、幕府軍に攻められ落城したようです。応仁の乱(応仁元年(1467年〜))で戦功を上げた赤松政則が赤松氏を再興し、この城には南北朝期からの家臣であった宇野氏を入れました。宇野氏は5代続きましたが、3代宇野政頼、5代祐清は毛利に与したため、(4代満景は織田氏に付いたため政頼らに殺害された) 天正八年(1570年)羽柴秀吉に攻められ、長水城・篠ノ丸城ともに落城しました。 

   主郭石垣       三の郭群の明瞭な堀切
篠ノ丸城より長水山(城)を遠望
現地案内板より
搦め手駐車場の案内板
山中からの眺望
主郭からの眺望
  
山中の井戸      山中の石垣
尾根端の石垣
主郭下
尾根上石垣       主郭下
二の郭遠望         二の郭下南郭との岩場の堀切
南郭直下、三の郭との堀切       三の郭群の浅い堀切

近くの城・関連の城:篠ノ丸城 宇野構 五十波構 聖山城