道案内 ←登り口1 ←登り口2 ←南城 ←北城 |
舞鶴若狭自動車道の福知山インタで下り、国道9号線を市内に向かいます。15Km先、野花の信号で右折し国道426号線に入ります。約28km先、出合のT字信号で国道426号線は左折します。 (ちなみに右折は国道428号線です。) 10km乙女橋の信号を右折すると出石の中心地に向かいますがそのまま国道を直進です。国道428号線を道なりに約18km先、鶴岡橋の信号で国道312号線に合流します(国道428号線と併用)入ります。1.5km先の但馬日高郵便局前で右折します。700m先の岩中の信号で直進してもいいのですが、国道としては右折です。右折して400m先の 祢布の信号を左折し、国道482号線を進みます。3km先の点滅信号を左折し、静修小学校の横を通ります。小学校の前の道は岩中からまっすぐ来た道です。これを横切り、100m先左手の道場区公民館の前を越えると道は右折です。川沿いを50m行くと鉄の橋(道場橋)があり、これを渡ってまっすぐに林道が続いていますが、林道からは登るところはないようです。<登城口1> 山の尾根先端麓(林道沿い)に墓地があり、この山裾を川沿いに廻り込んでいく古い道があります。尾根の先端部の反対側に廻ると、V字に小さな谷形状があり、ここから登ると北城先端に至ります。 あるいは、<登城口2> 国道482号線の久田谷の信号を左折し、200m先で新しい橋(道場新橋)を渡り一番奥に斜め右へ上がる道(西方寺跡へ行く道かな)があり山に入るところで左斜めに登っていくと北城ですが、道というほどでもなく、わかりにくいです。車の場合は登り口の右手の方の鉄塔下に空き地があります。<登り口3> 城跡資料では登り口1と登り口2のちょうど中間くらいに登り口を示していて、北城の西下斜面を通り、北城の南側尾根に登り、そのまま尾根を南へ向かうと南城のようです。
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訪城備忘録 |
広大な城域で、登城と遺構の見学で、結局3時間ほどを費やしました。 整備されているわけではなく、明瞭な登城道があるわけでもありません。私は北城がある尾根先端の麓から登り、帰りは北城西側下を通って集落背後の墓地のところに下りてきました。 まずは鉄の橋(道場橋)を渡るとすぐに墓地があります。そのそばから山裾を巡る古い道があります。川沿いの道です。斜面は切り立っていたり、草木が生い茂っていますが、尾根先端の反対側付近に一か所、口を開けたような場所があり、20mほど登ると尾根の先端に登れます、ここから尾根筋を登っていくと北城に至ります。
北城は小さな段郭と主郭背後に小さな堀切という感じの古い形態です。西側斜面には竪堀が2条あるのですが、よくわかりません。北城からいったん下り、尾根を登っていきます。
中腹からわりと広く削平された郭が続きます。 郭背後に土塁を伴うもの、尾根にそって土塁のある郭などを過ぎ、左端に土橋があり、巨大堀切を越えると低い土塁に囲まれた郭に至ります。堀切越しに郭を見ると切岸がすごくて壁のようです。ここが中段郭の主郭になるようです。その上、西側斜面の畝状竪堀は圧巻の遺構です。尾根の郭群の最後は切り立った高い切岸の上に郭があり、その郭の西側斜面まで畝状竪堀があります。畝状竪堀は7条ほどでしょうか。ものすごい巨大な畝状竪堀です。丹波一の畝状竪堀と言われますが、近畿一、もしかしたら日本一の畝状竪堀の高さ、深さ、長さの竪堀かもしれません。尾根郭最高点の郭を下りると、奇妙なU字の土塁が残る郭を過ぎ、中核部に入ります。尾根上の郭群は当然の連郭式の縄張りですが、山頂の主郭を取り巻く中核部は梯郭式に近い形で主郭を取り囲んでいます。各郭は広く、削平もしっかりし、上の段との切岸も高く鋭いです。登ってきた尾根と並行の支尾根にも段郭がありますが、この各段郭の切岸がまた高くてするどい。段郭を3段ほど下りた先に堀切がありますが、これはいままでの遺構を見てしまった後であったので、物足りない感じです。^^; 主郭西下の郭には石積みされた個所が何か所もあり、神社の跡のようにも見えますが、屋敷跡の石垣なんでしょうか。高さは3〜4段ほどであまり高くない石垣が各所にあります。また、さらにその下の郭の石積みは鏡石が残る石列に見えます。主郭には北側下の郭から明瞭な坂道が付いていて、そこにはこぶし大の石が散らばっています。往時は石積みのある坂虎口であったようにみえます。主郭は山頂ではありますが、ただただ広く、若干L字に屈曲の形状ですが、主郭下の複雑に区分けされた郭群に比べると、土塁もなく、なんかあっさりとした風景です。主郭南下に石が巨大な半円団子状態に積んである所がありますが、石礫の集積とされるようです。主郭東側下に郭があり、その先に2条の堀切が背後を防御していました。これも中腹の巨大な畝状竪堀を見た後なもので、感激するほどではなくなってます(笑) この城、わりと古い形式の城に改修をし、なおかつ中核部は大きく変貌させた改修をされたようで、時代の異なる遺構が混在しているようです。但馬には畝状竪堀を多用した城も多く残っており、ここの城はその代表格の城の一つと言えるのでしょうね。
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城跡遠景
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応永年間(1394〜1427)に山名氏の家臣の垣屋隆国とその子満成で築かれたとされるようです。垣屋氏は守護代家としてこの城を本拠としました。その後、守護の山名氏と垣屋氏は対立を深めていったようです。永正元年(1511年)には垣屋続成は山名政豊の此隅山城を攻めています。永正八年(1511年)に続成は本拠を鶴ケ崎城に移し、楽々前城は支城として機能したようです。永禄一二年(1569年)には織田信長の命で羽柴秀吉が但馬攻略に侵攻し、この城も落城したようです。天正三年(1573年)頃より、この地方は毛利側と織田側がせめぎ合っており、但馬の豪族は毛利方、織田方に分かれて勢力下で戦ったようです。織田方には垣屋光成がおり、天正八年(1580年)の羽柴秀吉の鳥取城攻めにも参戦し、鳥取城落城後には因幡に所領が与えられたようであり、その後に楽々前城は廃城になったようです。
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