摂津 | 滝山城 |
ファイルNo2743 |
@ たきやまじょう |
道案内 | |||
山陽新幹線新神戸駅の裏山が城跡です。駅の一階のバスのりは横のガードを布引の滝の案内に従って進みます。少し登った左手に「滝山城址」の石碑があり、そこから登ります。石段を登るとすぐに案内板があり、そこから山道に入ります。比高で250m以上を案内板に従い進むと城跡で至ります。 または、布引の滝の雄滝を経由して、展望広場、猿のかけ橋を通り山道を登ると城跡です。こちらは猿のかけ橋から距離は短いですが急な坂道です。二つの合流点から城跡までは尾根道を300mほどです。 |
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訪城備忘録 | |||
新神戸駅の裏山といっても急峻な六甲の山です。前回は2012年、夏の8月に甲子園で高校野球を観戦後に登ったのもあったのですが、喘ぎながら山道を登りました。2024年5月は午前中に大坂城に行ってから午後登りました。 麓の滝山城址の石碑の所(砂子橋<布引水路橋>=「レンガでできた橋/重文」の手前)から登り、塹壕のような山道を尾根に向かって登ります。なかなかきつい山道です。途中に段郭のような平坦地も認められます。前回訪城時より城内の伐採が進んで見やすくなっている感じがします。 布引の滝からの道との合流点からさらに斜面の細道を進みますが、左手上の尾根上は東の郭群になります。斜面の道右手に大きな竪堀が見えたところで大きく左に曲がり堀切道に入ります。主要部と東の尾根郭群の間、ここに中間の堀切があり、この中央に案内板があります。右手を登って行くと主郭(本丸)に至りますが、この右手の郭群(中央の郭群)も中央に竪堀状を挟んで、多数の段郭があります。主要部に近い郭はひとつひとつが広いです。若干土止めに石垣がされていたようでその痕跡も残ります。こちらは土塁も残ります。 三の郭相当の郭を越えると西の郭群の二の郭相当です。東屋が設置してありますが、けっこう大きな郭です。この城の郭は山城でもわりと大きい郭が多いという印象で、居住性を感じます。ここの南西尾根側に段郭が数段ありますがあまり見所はなかったです。西側はさらに高くなった主郭(本丸)です。郭内は二段になっていて、一番高いところに城址碑が建っています。その背後、西側下には少し不明瞭になってはいますが大きな二重堀切が残ります。元々の大きな鞍部に二重の堀切作ったように見えます。 土塁は案内板が設置してある堀切に沿ったところに明瞭に残りますが、あとの郭には土塁はないものの、郭の平坦度は今も明瞭で、全体的に縄張が完存しているという感じです。実は東の郭群に登れませんでした。中央の堀切から20mほどの直登ですが、前回は1リットルの飲み水も無くなっていて体が動かんという感じになってしまいましたし、今回は足回りが登山仕様でなかったので、連続断念です。中央の郭を見下ろすようにあるこの東の郭群は一城別郭的な要素があったようです。 城域端で登ってきた南尾根からの道ではなく、布引の滝方向に下りる位置があります。急ですが、距離は短い感じです。小郭的な平坦地もありますが、一気に谷まで下りる道です。 |
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築城時期は定かでないようです。文献には鎌倉末期の北条氏との戦いで赤松則村(円心)が立て籠もったとあるようです。その後の滝山城の動静ははっきりしないようで、戦国時代に入り、三好長慶に命じられた松永久秀が大改修したとされます。永禄七年(1564年)に三好長慶が亡くなるとこの城は三好三人衆が支配し、篠原長房が入ったようです。永禄十一年(1568年)に織田信長方に攻められ落城、その後は有岡城の荒木村重の支配を受け、花隈城の支城として、池田泰長が入ったとされます。天正六年(1578年)に村重が信長に離反し、天正七年(1579年)に村重が逃亡し有岡城が落城、花隈城とともに廃城となったようです。 |
中間堀切と虎口付近郭 |
主要部郭群 |
主要部南西尾根の郭群 |
主郭(本丸)・二重堀切 |
城域から布引の滝まで |
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