摂津/ | 兵庫城 |
ファイルNo2742 |
兵庫県の名称発祥
@ ひょうごじょう |
道案内 | |||
阪神高速神戸線柳原ICで下り、浜崎通りの信号を左折し、すぐの入江通り2丁目の信号を左折します。300m先の信号を右折し、さらに300m先の信号を左折します。50m先のT字(角が慶照院)を左折しすぐの右手に城址碑はあります。地下鉄中央市場前から入江橋を渡り運河沿いのキャナルプロムナードという遊歩道の途中に城址碑があります。 |
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訪城備忘録 | |||
城域は運河、宅地等になり、遺構は残っていません。但し、中央市場の一部が取り壊され、跡地にショピングセンター建設のための工事の際に兵庫城の堀と堀の石垣が発見されました。石垣は転用石も使われている野面積みで、数箇所から75mほど石垣が見つかったようです。2012年8月4日に現地説明会がありましたが、私は当日行けなかった為、今回行って見たのですが、工事現場への入場はことわられました。フェンス越しに写真を撮ると、工事現場内に発掘されたと思われる石塔が置かれていたり、発掘された石垣なんでしょうか大石が積み上げられていたりしていました。 2015年02月訪城 2015年04月訪城 ←発掘調査時期の写真です。 2015年1月末に前回よりも規模の大きな全体的な発掘調査の現地説明板がありました。今回も私は行けなかったんですが、次の週に近くに行ったので寄ってみました。 前回同様、中には入れませんでしたが、遠目でも石垣が何箇所か見えています。 今回の発掘調査では外堀の西面と南面、南面に架かる石垣の土橋、二の丸(帯郭)の1/4(3/4はすでに運河などで消滅)、本丸と二の丸の間の内堀の1/4(3/4h消滅)、本丸に架かる土橋、本丸の1/10程度(他は運河などで消滅)などが確認されたました。 2015年3月27日に天守台発見の報道があり、翌28日に現地説明会があったようですが、そんな急な^^; 翌週に行ってみましたが、当然、中に入れるわけでもなく、また、遠くから撮影して見ました。 どれが天守台の石垣なのかいまいち判断できずです。 急速に整地されており、埋め戻し保存のようです。 2017年08月訪城 ショッピングモールは一部開店し、9月からは全面開店でした。石垣はショッピングモールの正面と南東側隅の歩道横にモニュメントのように一部が積まれてました。コンクリートで固められ、この地から発掘された石は使用されていますが、城積みの石垣の移築復元ではなく、あくまで石を使用したモニュメントとして置かれてます。説明板は立派でした。 ******************************************* 現地説明会の報告については「ふくださん」のブログに紹介されています。「ふくださん」のご許可を頂きましたので、下記にリンク致します。 ふくださんのサイト 観測雑記帳 http://sao.seesaa.net/article/284990949.html 2012年 http://sao.seesaa.net/article/413300746.html#more 2015年1月 http://sao.seesaa.net/article/416475202.html 2015年3月 ふくださんのメインサイト:塩屋天体観測所 |
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荒木村重が織田信長に離反し、天正八年(1580年)に有岡城、花隈城は落城し、村重は逃亡しました。その戦いで功績のあった池田恒興が織田信長からこの地を与えられ、花隈城を廃して、兵庫城の築城を開始し、翌年完成したとされます。恒興は天正十一年(1583年)に大垣に転封となり、兵庫城は豊臣秀吉の直轄領となり、兵庫城は陣屋として機能しました。江戸期に入り、元和元年(1615年)、尼崎藩の陣屋が置かれ、明和六年(1769年)には天領となって勤番所が置かれました。明治元年(1868年)には、最初の兵庫県庁がこの地に置かれました。 この一帯は兵庫津と呼ばれた港であり、平清盛の時代は大輪田泊と呼ばれ、清盛が最初に改修したとされます。 |
2015年2月 |
2015年4月 |
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