道案内 |
山陽自動車道岩国インタを下り、インタ入口の信号で右折し国道2号線を進みます。錦川沿いをUの字状に進みます。約6km先で斜め右へ進み錦川沿いを進みます。800m先が錦帯橋です。 公共交通機関ではJRでは西岩国駅が距離的には近いんですが、広島方面からくると岩国止まりの電車が多く、バスも岩国駅発が多いため、岩国駅下車で向います。岩国駅からバスで20分ほどで錦帯橋です。
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訪城備忘録 |
この城は麓に居館があり、山上に詰め城的な山城があるという形態で、戦国期なら根小屋と詰め城という関係ですが江戸期の城ですので、大分の佐伯城、愛媛の松山城などと同様に平山城という事になりますが、先の2城もそうですが山上まで比高があり、山腹には郭等はないので平山城とは言いにくい感じです。錦帯橋(有料)を渡り、吉香公園を通って10分ほど歩くとロープウェー乗り場です。この周辺は城主居館があったお土居であり、水堀が残り、重臣の屋敷門などが残ります。ロープウェー(有料)で山上まで登ると天守台までは10分ほどです。北側の道は搦め手道のようで、途中に大釣井と呼ばれる大きな井戸があります。搦め手道の北側を見ながら歩くと道の下を見ると段郭・帯郭的な削平地も見えます。さらに進むと本来の天守台に至ります。(本丸の北側) この天守台は一国一城令の後に壊され、下部しか残っていなかったものを中段は修復し上段は復元したものとの事です。天守台の東側に大きな空堀があります。幅は20m、深さ10mほどの箱堀が50mほど続いています。江戸期に入って築城された城ですが、山上のため、水堀ではなく空堀なんでしょ。その東側に北の丸があります。整備はされてないようですが、石垣が荒々しく残ってます。大空堀の西側、本丸との間が小高くなっていて東櫓です。ここにも石垣の痕跡が残ります。大空堀の南側端から本丸の南下の遊歩道には長く石垣が続いています。今は樹木で下からは見えませんが、往時は麓からかの石垣群を望めたんでしょうか。本丸には北西端に本来の天守台があり、中央に錦帯橋から見える位置にという配慮で建てられた模擬天守があります。ですからこの天守は本来あった位置にはないという事です。訪城時は小雨でしたんで青い空と言うわけにはいきませんでしたが、他の方の写真で見ると、晴天の日の錦帯橋からの模擬天守は映えますね。
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案内板
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関ケ原の戦いで防長2国に減封された毛利家の一族である吉川広家も出雲・伯耆・石見の十二万石(月山富田城)から三万石に減封された形で岩国に入りました。慶長七年(1602年)からお土居、翌年から山上の城郭を築き始め、慶長十三年(1608年)に完成したとされます。天守は4重6階であったようです。元和元年(1615年)一国一城令で山上の城郭は廃城となりました。その後は麓のお土居のみ陣屋として機能し明治維新まで続きました。模擬天守は昭和37年(1962年)、錦帯橋から見える位置で本来の天守台とは違う場所に建てられましたが、南蛮式の天守は絵図に基づいているようです。本来の天守台は平成七年(1995年)に発掘復元されたものです。さらに、お土居の堀端にある錦雲閣は明治に建てられた吉香神社の絵馬堂ですが、江戸期の櫓を模して建てられたものです。
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