道案内 ←徒歩登り口 ←車道登り口 |
中国自動車道の山口インタを下り、国道262号線を北方向の山口市中心街へ進みます。約7km先、平野の信号で左折し国道9号線(山口バイパス)に入ります。約2.5km先、県庁前の信号で右折します。すぐを左折し300m先が多賀神社、山口大神宮入り口です。 さらに、県庁前信号から国道9号線をさらに約300m先、白石の信号で右折し、U字に県道21号線を進みます。ガードから約200m先の信号を右折し、約400m先、山口高校を過ぎたところで右折します。約300m先、パイパス高架下をクランク上に進むと木戸神社です。木戸神社左横から山へ進むと城跡への車道です。テレビ中継局まで車で登れます。
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訪城備忘録 |
鴻ノ峰の尾根上に連郭式に郭が配置されており、山頂部が主郭です。各郭は広いのですが防御としては堀切、竪堀というような戦国の城らしいものが見当たりません。急峻な山が最大の防御ということでしょうか。いずれにしても未完の城であったということですからそういう意味でこういう防御施設がないんでしょうかね。ただ、この城はその後六十年ほど毛利の城であったわけで、改修が主郭周辺の石垣づくりの改修だけだったんでしょうかね。いずれにしても、石垣は山頂郭周辺と東端郭の下に残ります。特に山頂郭の北側斜面下には大きな規模の石垣が残ります。高石垣は築けなかったのか三段ほどに分かれた石垣群です。さらに山頂郭の周囲にも石垣が多用されています。山頂郭は相当に広いです。山城の広さというより近世城郭の規模の郭です。江戸期毛利氏の藩庁が江戸期最初から萩ではなく山口だったら高嶺城ももう少し高度な城になったのかもしれません。
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主郭城址碑と説明板
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弘治二年(1556年)、大内義長が築城を開始しました。義長は大友義鎮の異母弟で、大内義隆の甥に当たります。天文二十年(1551年)に陶隆房(晴賢)は大内義隆に対し離反し義隆を自刀に追い込み、義長を迎え大内氏の当主としました。弘治元年(1555年)、陶晴賢は毛利元就に厳島の戦いに敗れ自刀したため、義長は毛利氏の進攻に備え高嶺城を築いたとされます。弘治三年(1557年)、高嶺城は未完であったところ、毛利氏に攻められ、義長は長門の逃れその地で自刀しました。城は毛利氏が改修し、城番を置きました。永禄十二年(1569年)、大内氏の再興を目指した大内輝弘が攻めますが、毛利氏城番はよく守り落城しませんでした。江戸期に入り、元和元年(1615年)の一国一城令が発せられ、寛永十五年(1638年)に廃城になりました。
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