因幡 若桜鬼ケ城



ファイルNo3127

破城の跡が残る城

                            本丸と天守台

@ わかさおにがじょう 
  別名 若桜城 

A住所:八頭郡若桜町三倉
B目標地点:
C形式:山城  D比高:250m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・堀切・土塁・碑・説明板
G時代/人物:鎌倉期/矢部氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  山上駐車場から10分、麓登城口から40分

J撮影・訪問時期:2016年07月

  

道案内 ←林道駐車場  ←徒歩登り口   ←城跡  

中国自動車道の山崎インターから国道29号線を約85km先、若桜の信号を左折し200m先の交差点を右折し県道176号線に入ります。 600m先を左折し、そのまま案内板に従い城跡手前の駐車場まで登ります。あるいは、若桜町民体育館の南側から登山口があります。(約1000mのようです)  あるいは、舞鶴若狭自動車道の春日インターから北近畿道(春日和田山道路)で和田山インターまで行き、さらに和田山八鹿道路の終点まで行きます。 国道9号線を鳥取市方面に進みます。養父市八鹿町八木地区(八木城のそば)の剣大橋の信号で左折し県道272号線に入ります。約4km先のT字信号で右折し県道6号線に入ります。養父市大屋町地区を大屋川沿いを進み、大屋町加保で右折し県道49号線に入ります。ここより山越えをし、下りたところが国道29号線宍粟市波賀町戸倉地区です。ここから約30km先が若狭の信号です。

訪城記録

徒歩で登ると古城を通り山頂の主要部の近世城郭に至りますが、今回は車で林道を進んだため、近世城郭のみの訪城となりました。 駐車場から少し歩くと幅のある細長い郭に至りますが、馬場との事です。これを越えると大きな堀切がありますが、近世というより戦国の遺構でしょうか。ここを越えると前面に石垣が横たわっているのが見えてきます。下には大石が散乱しており、これも破城の跡でしょうか。上に上がるとホウズキ段と呼ぶところです。ここから見上げると本丸天守台です。相当に崩されたようですが、隅石垣の部分が一列残っているのが面白い。 天守台、本丸の東側下には行き止まり虎口と呼ばれる囮虎口がありますが、草木が伸びて行けませんでした。 本丸から北側へ二の丸、三の丸と続きます。天守台を含め石垣で構築されていますが、至る所で崩されており、これも破城の跡でしょうか。 二の丸にある桝形大手門の虎口も実にいい感じですが、ここも天面は相当に崩されています。二の丸から本丸西下を通り搦め手門側に行きますが、この辺ンはさらに崩されているようです。搦め手門から西下へ進むと西の郭の先端に六角石垣があります。多面の郭ですが。やや本丸周辺より古い石垣の積み方かと思われます。 破城の痕跡を諸処に見られる価値のある城跡と思います。

二の丸の城址碑
歴史

築城時期等はっきりはしていないようですが、正治二年(1200年)に矢部輝種が駿河国から移り築城したとされます。矢部氏は十六代続きましたが、天正三年(1575年)に織田信長の支援を受け尼子氏再興を進める山中鹿之介に攻められ落城。これに対して毛利氏は吉川元春が包囲し、尼子勢は翌年破れ退去しました。天正六年(1578年)、羽柴秀吉が攻略し、天正九年(1531年)、木下重堅が二万石で城主となりました。重堅は関ヶ原では西軍につき自刀、慶長六年(1601年)、山崎家盛が二万五千石で城主となりました。木下氏から山崎氏の間に総石垣の近世城郭に改修されたようです。 元和三年(1617年)、山崎氏は備中成羽に移封され、この城は一国一城令に従い破城されました。その後、この地は鳥取池田氏の領内となりましたが、元禄十三年(1700年)に池田光仲の五男の清定が一万五千石で分与され、明治維新まで十代続きました。

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大手門桝形石垣                    六角石垣
現地説明板より
主郭よりの眺望
主郭よりの眺望
  
ホオヅキ郭下石垣
主郭南斜面の残存石垣
本丸から天守台石垣
六角石垣
体育館奥の登り口                百間石垣

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