道案内 ←中腹大手門手前の駐車場 |
山陰自動車道・安来道路の安来インターを下り、安来道路のガードをくぐり信号を右折、安来道路と平行に進みます。約2.6km先の信号を左折し県道45号線に入ります。(約7km先左が足立美術館です。) 約9.5km先で左折し新宮橋で飯梨川を渡ります。渡ってすぐを右折した200m先左手が道の駅・歴史資料館です。ここより徒歩でも登れますが、歴史博物館を過ぎてすぐを斜め左に登り道なりに進むと中腹の駐車場です。
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訪城備忘録 |
念願の城跡訪問でした。2016年後半で大整備工事が一応終了したようで、中腹の各群、山頂の主要部のすべてが見学できるようになりました。まだ、一部、塩谷口周辺、千畳平(太鼓壇)の整備・発掘調査がされていました。 現在見る城跡は尼子氏の城というより毛利氏、堀尾氏が石垣の城に改修した以後の城です。 戦国の感じより近世の城に近いです。確かに大きな堀切など残りますし、主要部が急峻な山頂の上ですから戦国の城の雰囲気も残っていますが、基本は石垣の城です。また、西の尾根は(台頭成付近)ものすごい竹藪と一部は畑であり、なかに入りにくいし、主郭の東にある尾根伝いにも尼子氏時代の遺構がありそうですが登る箇所が判らず整備もされていないようで登る事が出来ませんでした。(後で調べてみると十二所神社裏手からは登れるようですが) 期待してたからか、なんか不完全燃焼感が残りました。 加えてあまりに整備されているため、七曲には手すりがついて、山頂部は木々が伐採された裸山になっており、ありのままの古城感が損なわれています。さらに、山中鹿介幸盛が前面に出てPRされていて、尼子氏の存在が薄い・・・。 これにも不満です^^;
さて、城跡ですが、道の駅から登りました。最初に千畳平まで登ります。この手前もまだ木々の伐採等されていて、整備をされるようです。千畳平も北面の石垣周囲の発掘調査をされていました。その上の段が太鼓壇です。ここに山中鹿之介の銅像があり、西の一段高いところに尼子氏の碑があります。 奥書院を越えると花の壇です。ここに復元建物が建てられています。花の壇の背後に大きな堀切があります。堀切の向こうが山中御殿平になります。山中御殿平と書いて「さんちゅうごてんなり」と呼びます。 ここに来て初めて知りました。^^; 相当の広い区画で、東側に菅谷口、西に塩谷口の虎口、北側に大手門があり、それぞれ石垣で固められています。 この中腹の石垣と主要部の三の丸・二の丸の石垣は違うように見えます。石の色が違うので石材が違うのかも。いずれにしても城跡のすべての石垣は積み直されたもののようです。中腹が堀尾氏、主要部が吉川氏の改修なんやろうか? 背後が主要部への斜面で七曲りになります。今は木々がずべて無くなり裸の斜面に真新しい手すりの付いた道が続きます。登りきると三の丸です。上の壇が二の丸ですが、その斜面に大規模な石垣が周囲を巡ります。 二の丸は南北に細長い郭です。周囲を石垣が巡り、二の丸の背後、本丸との間に大きな堀切があります。本丸も南北に長い郭です。山中幸盛の碑があり、郭は二段になっていて奥に神社があります。 主要部の周囲は急な斜面ですが、それでも神社背後の急尾根には堀切が一条ありました。(裏参道から見えます) 山頂部は木々が伐採されて眺望はすばらしいです。
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麓の城址碑
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築城時期・築城者は定かではないようです。伝承では、平安期に平景清が築城したとあるようです。鎌倉期には承久の乱の功により承久三年(1221年)、佐々木義清が出雲守護となり、冨田城を本拠としたようです。その後、南北朝期には佐々木氏、山名氏が守護となり、南北朝期以後の明徳三年(1392年)、佐々木京極高詮が守護となり、守護代として一族の尼子持久が入りました。持久の後、清定、経久と続きますが、文明十六年(1484年)経久が所領横領として京極氏と対立し追放され、塩谷氏が守護代となります。 しかし、文明十八年(1486年)、経久は冨田城を奪還、以後、独立した存在として、領土を広げていきます。 天文十年(1541年)に経久が死去し、孫の詮久(晴久)が継ぎました。 天文十二年(1543年)の大内氏に冨田城を攻められますが撃退しますが、永禄八年(1565年)に毛利氏が冨田城を包囲、翌九年に当主尼子義久は降伏、以後は毛利氏の城として存続します。天正十九年(1591年)、吉川広家が豊臣秀よりの命により出雲、伯耆、隠岐、安芸の一部を領して14万石で月山冨田城に入りました。これ以後、石垣の城に改修したようです。関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴が出雲に入封、慶長十六年(1611年)、松江城が完成し移り、月山冨田城は廃城になりました。
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