道案内  |
岡山自動車道の賀陽インタを下り、右折し国道484号線に入ります。約13km先(途中、ループ状の道を下りていきます。)の警察署北の信号で左折し国道180号線に入ります。約800m先の落合橋東で右折し国道313号線に入り、高梁川を渡ります。橋を渡ると落合橋西の信号で国道は左折です。(約300m先の左手、コンビニの隣に山中鹿之助の墓があります。) 国道を落合橋から約8.5km先の左手が成羽美術館(成羽陣屋)です。この裏手の道を右手に進み、成羽小の裏手を登ります(比高約20m)。約200m先左手に登城口があり、上の公園を横切り、登城道に入り登ります。比高で約120m登ると尾根鞍部で右手に登ります。比高で約110m登ると鶴首山山頂です。
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訪城備忘録 |
夕方から登ったので、日没までに帰って来られるか心配でしたが、なんとか行けました。 登り始めはやや道が荒れてました。 尾根鞍部までの登り道の中腹に東屋がある平坦地があり、太鼓丸とされます。 鞍部まで登ると主郭へは右手を登ります。(標識あり) 左手上にも出丸的な城郭遺構があるようですが、夕方でしたので主要部を優先してこちらには行きませんでした。山の頂部まで登りが続きます。右手の斜面には小段郭のような小さな平場が続いてます。先端側には小さな祠がありました。
城域まで登ってきたら先端の郭には「馬場」(もう判読できませんが)と表記されています。馬場のわりには丸い郭で厩でしょうかね。^^; 主要部との切岸には石垣ではないんでしょうけど岩盤が節理で割れたんでしょうか?大石が積みあがったように見えます。 もう一段上に登って行きます。二の郭東側前面の小郭から二の郭に入ります。虎口がやや枡形になってます。その南側上が主郭です。主郭との切岸に石積みの痕跡のような石が多数残ります。二の郭から東側を廻り込んで主郭の虎口に行きます。この主郭東側切岸にも石積みの痕跡があります。主郭虎口の東側も幅のある郭があります。虎口は二の郭以上に明瞭ですが平虎口でした。虎口の横はやや盛り上がった区画があり、資料には櫓台とありました。中心の木に説明板が立てかけてありました。主郭はそこそこ広い郭です。主郭の南側には三の郭(三の壇)があります。主郭との高低差は低いですが、主郭と三の郭の切岸にも石積みの痕跡があります。主郭は西を除く三方に低いですが石垣があったようです。
三の郭も主郭程度の広さを有します。三の郭は主郭東側の郭と繋がってます。三の郭の下が四の郭(四の壇)です。こちらの切岸はやや高くなります。さらに四の郭の南下が五の郭(五の壇)です。さらに切岸が高くなってました。五の郭の下に大きな堀切があり、そのさらに南にもう1条の大きな堀切があります。二つの堀切の間の西斜面には三条ほどの細い堅堀(畝状堅堀)が並んでますが、肉眼では判りにくかったです。東斜面にも堀切から落ちる堅堀とは別に堅堀が落ちています。城域背後尾根側は防備が厳重です。
主郭から五の郭までの西側斜面にいくつかの堅堀及び主郭西下に郭があるようですが、夕方で暗くなってきたので無理はしませんでした。登城道は整備はされてますが、だんだん荒れてきている感じで、設置された標識なども字が消えたり落下してました。この城は比高250mくらいある山城ですが、さすがに本拠の城だけあって居住性を感じる城でした。
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歴史 |
主郭の説明板
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伝承では平安末期の文治五年(1189年)に川村四郎秀清が築いたとされます。天文二年(1533年)、三村家親が大改修し、法雲山城から本拠を移しました。永禄四年(1561年)、三村家親、元親親子は本拠を備中松山城に移し、鶴首城は家親の弟(一説には甥)の三村親成(親重)が城主となりました。永禄九年(1566年)、家親が宇喜多直家が家親を殺害した事が発端で、天正二年(1574年)、毛利氏と宇喜多氏が和睦した際に元親は織田方に付きましたが、親成(親重)・親宣親子は毛利氏方に残りました。鶴首城は元親に攻められ親成親子は毛利氏に身を寄せました。翌天正三年(1575年)、毛利氏は鶴首城、備中松山城を攻め落城させ、元親は自害し、親成親子は鶴首城に復帰しました。 慶長五年(1600年)の関ケ原の戦い後、毛利氏は減封となり、親成親子は禄を失い、後に親宣は福山藩水野氏の仕えました。鶴首城は宇喜多秀家の旧臣の岡家俊に六千石で当地を与えられました。慶長二十年(1615年)、岡氏は豊臣方に付いたため改易され、元和三年(1617年)、山崎家治が三万五千石で入封、麓に居住(旧三村氏館、後に成羽陣屋を設ける)、鶴首城は廃城になりました。
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