道案内 ←城跡 ←登り口@ ←登り口A |
山陽自動車道の岡山インタを下り、国道53号線を岡山市内に向かいます。約2.8km先のT字信号で右折します。約600m先の信号で左折し国道180号線に入ります。約1.6km先、斜め右の県道に入ります。約1.2km先、の信号で右折します。さらに、約1.2km先の信号で右折します。約600m先で大安寺駅そばで吉備線の踏切を越えます。約150m先で右折し、約250m先で左折、約500m先の左が法照寺です。寺の前で道は右カーブですぐにゲートがある林道です。ここの付近で車を止め集落内を歩いて登り口に行きました。
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訪城備忘録 |
登り口は矢板山の南山麓に何カ所かある感じですが、いずれも周囲には道が狭いため、車で行かれた場合は駐車位置に注意された方がよろしいです。矢板山の東西斜面は砕石所となっているため入れないと考えた方がいいです。その南側の登り口も迷いに迷いましたが、なんとか山道を見つけて進みました。山全体が岩山という感じです。至る所に巨石が露出しています。城域としては最初に東の出丸に至ります。出丸内は藪状態ですが切岸面に石垣の痕跡があります。出丸の先は堀切で土橋になってます。ここから登りきると矢板山で二の郭とされます。岡山市内中心部への眺望がいい場所でした。ここから北側に少し下りると主郭です。副郭を通り過ぎた先が主郭ですが手前に大石が二個両サイドにはあり、虎口の鏡石のように見えます。主郭内も草木が多い状態です。また、主郭東側は絶壁の岩盤の壁でそのに岩がそそり立った感じで異様です。また、主郭北側下にわりと規模の大きな石垣が残ります。西側に小郭があり西側眺望はいいんですが明瞭な遺構というものは見当たりません。さらに北側へ下りたらいいのかもしれませんが草木が多かったので断念しました。
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矢板本町集落内説明板
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仁和年間(885〜89年)、富山重興が築城したと伝承されますが定かではないようです。但し、長い間、富山氏の居城であったようです。応仁元年(1467年)、富山長頼は松田元隆に攻められ自害し富山氏は滅亡し、松田氏の居城としました。松田元成(元隆の子)は金川城に居城を移し、富山城には元成の弟の親秀が入りました。永禄十一年(1568年)、宇喜多直家に松田氏は滅亡に追い込まれ、富山城には直家の弟の忠家が入り、城を拡張しました。忠家の後は子の詮家が城主でしたが宇喜多氏の内紛で宇喜多家を離れました。詮家は後の坂崎出羽守直盛(千姫事件で有名・津和野城主)です。 城は慶長五年(1600年)の関ケ原の戦い後、小早川秀秋が備前に入った時点で廃城になりました。
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