備前 福岡城



ファイルNo3057


                城跡の丘            

@ ふくおかじょう 
  別名 備前福岡城 

A住所:瀬戸内市長船町福岡
    旧:邑久郡長船町

B目標地点:長船カントリークラブ
C形式:平城  D比高:5m 
E現況:ゴルフ場

F遺構等:石碑
G時代/人物:鎌倉期/頓宮氏
H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2016年02月・2018年10月

  

道案内 

山陽自動車道の山陽インタを下り、県道37号線を南下します。約7km先、東平昌の信号で左折し国道250号線に入ります。約1.6km先で国道2号線と合流します。合流してから国道2号線(岡山バイパス)を約3.2km進むと備前大橋です。橋を渡って備前大橋東の信号で右折し県道464号線に入ります。1.2km先右手の河川ゴルフ場の中の茂みが城跡です。
 
訪城備忘録

河川ゴルフ場の中にぽつんとある微高地の茂みが福岡城の主郭跡と言われてますが遺構らしいものはありません。

城址碑
歴史

鎌倉末期、頓宮四郎左衛門が築城したとされます。南北朝期、南朝系であった頓宮氏は足利氏によってこの地を追われました。その後、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると備前は山名教之が守護となり、備前守護代の小鴨大和守がこの城を改修しました。応仁の乱で赤松氏を再興した赤松政則は文明元年(1469年)にこの城を奪還しました。文明十五年(1483年)、松田氏と対立し,赤松氏と浦上氏は大改修を行いました。同年、松田氏と福岡合戦と呼ばれる戦いがありました。大永年間(1521〜28年)、吉井川が大氾濫し城に川筋が入ってくる状況とな廃城になりました。備前福岡は鎌倉期より市が立ち福岡千軒と呼ばれるくらいに繁栄したようです。

黒田官兵衛で有名で九州筑前の福岡城を築いた黒田長政(官兵衛の子)、代々福岡藩の黒田氏は、近江を追われ、ここ備前福岡に流れた黒田隆政と子の重隆がこの地から黒田氏の再興を図ります。重隆は播磨の小寺氏に仕え、職隆→官兵衛孝高→長政と続きます。筑前福岡城は黒田氏の初心忘れべからずから由来していると言われます。隆政の墓は備前福岡の妙興寺にあります。

城跡の丘周囲のゴルフ場
夕陽
  
ゴルフ場から城跡の丘
国道2号線から城跡遠望
長船城(兼光屋敷) 3138 
@ おさふねじょう 別名 兼光屋敷 A住所:瀬戸内市長船町福岡 旧:邑久郡長船町 B目標地点:備前長船刀剣博物館 C形式:平城  E現況:田畑  F遺構等:土壇・説明板 G時代/人物:鎌倉期/頓宮氏 H満足度: 凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:5分 J撮影・訪問時期:2016年08月

備前長船刀剣博物館の南側の路地が城跡です。土壇のような高まりと堀跡かと思われる水田が遺構のようです。手前に説明板があります。

南北朝期に足利尊氏より備前刀の名工の兼光がこの地を賜ったとされます。100m四方に堀を巡らした城であったようですが、文明十五年(1483年)、福岡合戦の際に松田勢に焼き討ちされたとされます。<現地説明板より>

土壇       説明板
土壇       土壇と堀跡
備前長船刀剣博物館    造剣の碑(大正時代)

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