道案内 |
瀬戸中央道児島インターを下りて右折します。約1.2km先の信号を左折し、500m先、下津井小学校入口のバス停付近で右折します。約1.4km先で左折し、200m先左手が公園駐車場です。ここからでもいけますが、そこから約800m道なりに進むと左折する道があります。ここを進むと城跡南下の石垣のところまで行けます。
なお、倉敷市藤戸町天城にある正福寺に城門が移築されているようです。
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訪城記録 |
前回は秋でしたが、今回は夏真っ盛りの時期の訪城でした。前回は石垣がたくさんあったくらいの印象しかなく、再訪したかった城跡でしたが、夏場は下草が伸び、木々の葉も大きく育っているため見づらい訪城になりました。この城は頂点の本丸を北を除く周囲を二の丸が囲み、東側に三の丸、中の丸、西側に西の丸、馬場などを配した城です。 三の丸南面の石垣はよく残っています。二の丸南下の桝形大手門も何とか形状と石垣が残ります。本丸にある天守台と呼ばれる箇所は石垣が取り囲みますが本丸との段差は低いです。しかし、西側斜面を見る草木に覆われてますが大石で築かれた石垣が確認できます。本丸から西側に下りると二の丸の西側で、その西斜面に明瞭な石垣が残ります。その先、西の丸との間には土橋があり、側面は石垣になってました。西の丸側には石切り場になったか岩山状で、切り出した残念石のような矢穴が残る石があります。西の丸北側下は馬場で、その斜面にもよく石垣が残ります。本丸から東側は三の丸、堀切を越えて出丸のように独立した感じの中の丸があります。 主要部の石垣が崩れて地面に多く散乱したり、石垣の隅部が欠けていたりするのは破城の痕跡でしょうか?
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城址碑
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その以前にも砦程度の城はあったようですが、文禄年間(1592年から96年)に宇喜多秀家が築城したとされます。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した秀家は改易となり、代わって岡山城には小早川秀秋が入り、下津井城には平岡頼勝が入封するも、慶長七年(1602年)に秀秋が急死し、小早川家も改易となり、岡山城では池田忠継が入封し、下津井城には池田長政が入りました。城は秀秋時代から改修が始まり、長政時代に本格的に進め総石垣の近世城郭になってようです。その後、慶長十四年(1609年)に池田由之が入って三万二千石を領しましたが、慶長十八年(1613年)、本家の池田輝政が死去し、由之は明石城に移り、忠継の家臣の荒尾成利が城代となりました。寛永九年(1632年)、鳥取池田家と岡山池田家は領地交換となり、下津井城には米子城城代であった池田由成が城代として入るものの、寛永十六年(1639年)に一国一城令で廃城になりました。由成は天城に陣屋を構えて移りました。
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