道案内 |
山陽自動車道の岡山インタを下り、国道53号線を南下します。約2.5km先の信号で右折し、約600m先の信号で再度右折して国道180号線に入ります。笹ケ瀬川沿いを約1.8km先の矢板の信号で右折し、約300m先の樽津東の信号で左折し国道180号線新道(岡山西バイパス)に入ります。約4.5km先の西長瀬の信号で右折し県道162号線に入ります。約2.8km先で山陽本線を越え、さらに約1km先が庭瀬の信号で、左折します。約400m先(庭瀬駅手前)の十字路で右折し約300m先のT字で右折し道なりに約200mほど行くと左手水路の中に突き出したようにある清山神社(庭瀬城)です。さらに約100m進み、変形十字路を左折し約100mほどで道が右に曲がり、約70m先で再度道が右に曲がると撫川城址公園(撫川城)です。
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訪城備忘録 |
元々はひとつの城だったものが、いろんな変遷があり、江戸期には撫川陣屋と庭瀬陣屋というふたつの陣屋が200mの間に存在したという変わった城史を持つ城です。この一帯は元々沼であったようですが、今は住宅が密集しています。しかし、住宅地の各所に水路が今も残っています。おかげでか、周囲の道が狭い。^^; すれ違うのも苦労するような道があって県道162号線、庭瀬の信号の先の中田十字路の信号を過ぎたあたりから左手に入るのがとてもシンドイです。撫川城は城址公園・神社になっていて西側、南側に天正期のいい感じの野面積みの石垣が残ります。北西端の石垣は少し張り出していて櫓台跡のようです。城址公園の正面には知行所の門が移築されていてなかなか雰囲気がいいです。この手前がやや広く車は数台停められます。庭瀬城は清山神社のところが水路側(ここだけ水路幅が広い)に突き出していて、そこに説明板と城址碑がありますが、遺構的には周囲の石垣が江戸期のものか?ですが・・・。説明板の道路反対側に4台ほど停められる駐車場があります。庭瀬城の200m北側、本町公民館あたりは庭瀬湊跡であり、説明板と常夜灯が復元されています。
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説明板
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永禄二年(1559年)三村家親が築いたとされます。天正三年(1575年)に三村元親の備中松山城で毛利氏に攻められ元親は切腹し三村氏が滅亡、撫川城は毛利氏の城となり、井上有景が入り、毛利氏の境目七城のひとつのなりました。天正十年(1582年)、羽柴秀吉が備中高松城を攻めた際にこの城も攻められ、その後は宇喜多直家の所領となりました。天正十四年(1586年)、宇喜多氏の家臣の岡利勝が城を改修し、今見る石垣の城になったようで、重臣の戸川達安が所領しました。関ケ原の合戦後、宇喜多氏を離反した戸川達安にこの地が与えられ旧二の丸側に庭瀬城を築きました。延安七年(1679年)、四代の安風が死去し戸川氏は改易されましたが、安風の弟の戸川達冨は5千石を与えられ、撫川城本丸側に撫川陣屋を設け、東側(庭瀬城側)は放棄しました。元禄十二年(1699年)、旧二の丸は板倉重高が上総高滝から2万石で入封、庭瀬陣屋となりました。その後、ともに明治維新まで続きました。
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