安芸 | 木村城 |
ファイルNo3773 |
竹原小早川家の本城
@ きむらじょう |
道案内 | ||
山陽自動車道河内インタ下り、インタ入口の信号を右折し国道432号線に入ります。約6.5km先の新庄の信号を直進し国道2号線を横切ります。約1.2km先が小早川神社バス停(竹原駅方面バス停)に案内板と説明板があります。そこの左手の山が城跡です。国道から左折し、道なりに約600m、城の東側に廻り込むと城址碑と説明板のある箇所になります。そこから右手に道標に従って進みます。竹原駅からは県道246号線から竹原市役所南の信号で直進し国道432号線に入り、約5km北上した所です。 |
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訪城備忘録 | ||
夕方の訪城でした。バス停から道標に従い城跡のある山を時計回りで東側に廻り込むように進みます。東側麓に城址碑と案内板があり、ここから右手に進みます。山に入り細道を右手に登って行きます。 最初の郭は馬返しの段(郭)となりますが、その手前左手斜面には四条の畝状竪堀があるようですが、薄いのかよくわかりません。馬返しの段(郭)は思いのほか広くしっかりした郭です。中央奥には井戸跡もあります。上の段の郭との切岸が8mほどあり壁のようです。上の段の郭は兵糧の段(郭)の下郭という事になりますが、すり鉢のような郭でここにも井戸跡があります。この上が兵糧の段(郭)で、北端に高くなっていて段差は石段になってます。城としては櫓台という事になりますが、若宮神社(和賀神社)の跡で、神社は後に麓に下りています。この兵糧の段(郭)は主要部の下、北側尾根に長く大きな郭です。兵糧の段の南端、主要部の下に横型の畝堀のような地形があります。主要部の切岸は4mほどあるかな。 主要部は主郭(本丸)を頂点に北側に三段になっていて、最初の段は井戸の段(郭)と呼称され、ここの井戸は石組の井戸が今も見る事が出来ます。二段目が二の郭相当と思われ、その上が主郭(本丸)です。主郭は北側に低い段差になっていて石積みの痕跡のような石があります。井戸の段(郭)は四方を帯郭上に巡っていて南側と東側にそれぞれ幅があり、郭になってます。南の郭の下には堀切が、東の郭の斜面には畝状竪堀がありますが、夕方の訪城であることもあり、降りませんでした。印象は郭が広く、コンパクトにまとまった城だなという印象です。馬返しの段(郭)、兵糧の段(郭)には居住性感じました。 |
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歴史 | ||
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沼田小早川家の当主、茂平の四男の政景が鎌倉期、承久の乱後の正嘉二年(1258年)に築城したとされ、竹原小早川家となりました。天文十年(1541年)、十三代 小早川興景が陣没しましたが、男子の子がいなかったため、毛利元就の三男の隆景が天文十三年(1544年)に竹原小早川氏を相続し、十四代当主となり、木村城に入りました。これは興景の妻が元就の姪であったという縁だったからのようです。天文二十年(1551年)、本家の沼田小早川家も隆景が相続したため、高山城に移りました。木村城はこの時に廃城になったかは不明のようです。 |
手島屋敷(竹原小早川氏居館) 3774 |
石垣が屋敷跡の三方を巡ります。中央に虎口があり、すべて石垣で固められています。南の角、北の角が桝形状になっています。南の角には「勝負の檀」と刻まれた石碑が立っています。石垣は野面積みというより打込ハギに見えます。落とし積みにもなっていないのでそれなりに歴史のある石垣に見えました。ただ、ものすごく白いので新しい石垣に見えてしまいます。 木村城の西側、賀茂川の対岸にあります。手島屋敷と呼ばれるのは竹原小早川氏の家臣であっった手島氏が竹原小早川氏が高山城に移った後にこの地に住したためです。西殿屋敷などと呼ばれ、竹原小早川氏の居館であったとも言われますが、確定はしていないようです。 |
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