安芸 五龍城



ファイルNo3500

巨大な堀切、諸所に残る石垣、戦国の姿を残す

               姫ノ丸の石塁             

@ ごりゅうじょう 
  別名  

A住所:安芸高田市甲田町上甲立〜下小原
    旧:高田郡甲田町

B目標地点:五龍橋・司箭神社(しせん)
C形式:山城  D比高:130m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・説明板
G時代/人物:南北朝期・戦国期/穴戸氏
H満足度: 凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  30分

J撮影・訪問時期:2018年12月

  

道案内     

中国自動車道の高田インタを下り、高田インタの信号を左折し県道64号線に入ります。約2.5km先の高田インター西の信号で左折し県道6号線に入ります。約13km先、安芸高田消防署前の信号で左折し国道54号線に入ります。約13km先、高宮分れの信号で右折し県道4号線に入り、約100m先の甲立小学校入口の信号で右折、県道52号線を約200m先、橋を渡った右手に登り口があります。 (山陽自動車道の広島インタから国道54号線で約45km先が安芸高田消防署前の信号です。)
 
訪城備忘録

尾根上約700mに直線的に郭が展開される巨大な戦国の山城です。大きく分けて三つの郭群に分けられるように見えます。登り口から少し登ると尾崎丸となり、司箭神社が鎮座しています。ここは六代穴戸元家の三男の家俊が祀られたもので、江戸期に建立されたもののようです。家俊は安芸武芸の祖のような方のようです。神社裏手を進みます。すでに石塁跡のような箇所もあります。最初の見所は櫓の段背後の土塁、横堀、土橋です。 幅の広い堀に土橋がきれいに残ってます。 ここから三の丸から本丸までのエリアで、切岸が明瞭で、諸所に石積みが残ります。姫の丸の北西斜面には規模の大きい石垣が残ってます。本丸背後の櫓台下にも石垣列がありますが、これは綺麗すぎます。この主要部の郭群の最大の見所は櫓台の背後の大きな堀切です。櫓台から10m以上急な斜面を降りなくてはいけないもので背後からはとても本丸を攻めることができないくらいの高低差です。堀切も明瞭な形で残ります。堀切背後はまた斜面を登ることになります。詰めの郭群と言うべきエリアが続きます。本丸背後の堀切に続いて畝状竪堀的な遺構が残っています。これも明瞭です。詰めの郭群の主郭になるのが御笠丸と言われる郭です。そこまでの大きな二段の段郭があり、最後に御笠丸の切岸がそびえます。御笠丸は二段になっていて奥の郭にはクの字の土塁が残ります。御笠丸周囲の諸所にも石積みの痕跡が残ります。この御笠丸背後も急斜面で多くな段差になっています。堀切というより巨大な竪堀が左右にあり、真ん中に土橋がありまます。ここは搦め手という事のようです。土橋を渡ると低い土塁が巡る円形の郭があります。これは池とも言われますが、櫓台にも見えます。戻って本丸下の堀切から南側へ降りると御風呂の段、御釜の段と呼ばれる郭群があります。大石が散乱していたり、虎口と思われる箇所に石積みが残存していたり、石列があったりします。名前の通りの居住区だったんでしょうかね。いずれにしても巨大な山城で堪能できました。

登り口の説明板
歴史

建武元年(1334年)、安芸甲立荘に入った穴戸朝家は最初は柳ケ城を居城としましたが、南北朝期に五龍城を築城したとされます。戦国期に入り、穴戸隆家は争っていた毛利元就と天文二年(1533年)に和睦して元就の娘を正室として迎え、その後は毛利氏に従いました。慶長五年(1600年)の関ケ原の戦いで毛利氏は防長2国に減封され、穴戸元続も従ったため、五龍城は廃城となりました。

櫓ノ段背後の土塁と横堀・土橋     本丸背後の堀切     
現地説明板より
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姫の丸から本丸
麓より城跡遠望
御笠丸の切岸
御笠丸背後の竪堀

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