安芸/ 広島城



ファイルNo1595


           内堀越しの天守

@ ひろしまじょう 
  別名 鯉城、当麻城・在間城 

A住所:広島市中区基町
B目標地点:
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公園・官公庁・市街地

F遺構等:郭・石垣・水堀・復元天守・復元門・
     復元櫓・碑・説明板

G時代/人物:戦国期/毛利氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  広島城南の信号の駐車場から15分

J撮影・訪問時期:2006年10月・2015年05月
            2023年06月

  

道案内 

山陽自動車道広島東インターから広島高速道1号線に東雲インターを下り、国道2号線に入ります。6km先、広島市役所前の信号で右折します。2.5km先正面が広島城です。

 
訪城備忘録

名古屋城、岡山城とともに日本三大平城らしいです。縄張は聚楽第型とも言われますが、方形の大きな主要部(広島城の場合は本丸のみ)を周囲に内堀が廻り、内堀の外側に外郭(広島城の場合は三の丸)があって、これを繋ぐのが内堀内に浮かんだように独立してる郭や馬出し(広島城の場合は二の丸)があるという基本構造で、富山城・高岡城(いずれも富山県)も同様の縄張です。これの変形型と言うべきか、築城の名人と言われる藤堂高虎が縄張した今治城(愛媛県)、津城(三重県)、丹波篠山城(兵庫県)も構造的に似ています。

中堀、外堀も昭和30年代まで残っていたようですが、今は内堀内のみです。内堀内の石塁は残り、中は本丸ですが、北半分が若干高く上段、下段に区分けされています。天守が鉄筋で復元され、ていますが、天守は耐震の関係で2025年以降は入れなくなるらしいです。建て替えの検討もあるようです。さらに、表御門、二の丸平櫓、多門櫓、太鼓櫓が木造で復元されています。

裏御門の城址碑
歴史

毛利輝元は120万石の居城として、天正十七年(1589年)に築城を開始し、慶長四年(1599年)に完成したとされます。輝元は天正十九年(1581年)には吉田郡山城から移っていました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった事から、周防・長門に減封となり、萩に移り、変わって、福島政則が49万石で入城し、城を改修しました。元和五年(1619年)、政則は洪水で壊れた石垣を幕府の許可なく修理したとして改易され、同年、浅野長晟が紀州より42万石で入城し明治維新まで浅野氏の居城となりました。、明治維新以後、軍の施設などになりました。天守、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓などが現存していましたが、昭和二十年(1945年)8月の原爆で破壊されました。昭和三十三年(1958年)に外見復元天守が完成しました。また、二の丸の表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が平成六年に復元されました。


復元天守
復元天守石垣
中御門石垣          東小天守石垣
復元天守
内堀越しの復元天守
内堀越しの復元天守
二の丸復元建物
復元太鼓櫓
  
復元天守遠望      二の丸復元建物
二の丸復元建物
内堀
中御門横の内堀石垣
本丸石垣
復元太鼓櫓
表御門   復元   多門櫓
復元表御門
表御門橋から内堀と本丸石垣
復元表御門を二の丸内から
G7鎧兜(二の丸多聞櫓内展示)
中御門の原爆で焼けた石垣の石
中御門石垣
復元天守から東小天守石垣を見る

   
外堀石垣(移築)    暗渠跡
広島大本営跡    石垣の「天」の刻紋
原爆ドーム

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