甲斐 要害山城



ファイルNo2400

武田氏本城詰めの城

                            

@ ようがいさんじょう 
  別名 要害城、積翠山城 

A住所:甲府市上積翠寺町
B目標地点:要害温泉・積翠寺温泉・要害山
C形式:山城  D比高:登城口から260m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/武田氏
H満足度: 凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  登城口から40分

J撮影・訪問時期:2010年03月

  

道案内 

中央自動車道の甲府南インタを下り、甲府南インタ口の信号を右折し、国道358号線に入ります。<1km先の国道140号線との交差点を直進> 14km先が甲府駅前です。手前の甲府警察署前の信号で右折し、150m先の甲府警察署東の信号で左折し県道31号線に入ります。右手甲府城を見ながら中央本線の陸橋を越えると山梨文化会館前の信号を左折し、100m先の甲府駅北口の信号を右折します。県道31号線(武田通り)を2.8km先が武田神社(躑躅ケ崎館)です。この前のT字を左折し神社に添うように右折していきます。武田神社前から道なりに4km、右手の川向こうに積翠寺温泉「要害」というホテルがあります。ここの入口に登山口があります。
 
訪城備忘録

県道から温泉へは小さな橋を渡ります。県道沿いの広い箇所に車を留めるがいいでしょう。登城口には説明板と縄張り図があります。つづらの道を比高150mほど登ると中腹の遺構が始まります。各門は枡形あり、石垣あり、スロープ状の土橋ありで、どの門も技巧的に高く見応えがあります。とても信虎時代の城には見えず、勝頼時代の改修でしょうか?加藤氏の時期の改修なんでしょうか? ただ、構造は信濃の砥石城や近江の小谷城にも似た感じは山城の縄張りとしては当然なんでしょうが、中世の山城を残しているということでしょう。主郭に近づくにつれ、平坦部分は広くなり、主郭は尾根先端のピークにたまご型の大きな郭を持ち、周囲を土塁が巡ります。主郭後ろの尾根上は細尾根に堀切、竪堀、土橋が数箇所有り、まさしく中世の城でした。豊臣系の改修も入っているようですので、すべてを武田の城とは言えませんが、中世の縄張りと戦国後期の技法が明瞭に交わっていておもしろい城跡です。

歴史

武田信虎が永正十六年(1519年)に躑躅ケ崎館を築き、石和より移り、翌年に詰め城として要害山城を築いたとされます。大永元年(1521年)に今川氏親の家臣の福島正成が甲斐に侵攻して躑躅ケ崎館に迫った際、信虎は正室の大井夫人を要害山城に避難させたと伝わり、その際に信玄(晴信)が生まれたとされます。天正四年(1576年)には武田勝頼は天正三年(1575年)の長篠の戦の敗北を受けて、城を改修をしたものの、天正九年(1581年)には新府城を築いて移りました。しかし、翌天正十年(1582年)に武田氏が滅亡、この後の本能寺の変後に甲斐は北条氏と徳川氏の領地争いになりましたが、和睦で徳川氏の領地となり、躑躅ケ崎館は徳川氏の家臣の平岩親吉が在城、要害山城にも城番が置かれたようです。また、一時、加藤光泰が入り、要害山城を改修したと伝わります。天正十八年(1590年)に徳川家康が関東移封となり、慶長五年(1600年)には破却されたようです。

要害山城・追加写真ページへ⇒⇒ ☆☆
  
現地案内板より
クリックすると大きくなります

近くの城・関連の城: