道案内 |
中央自動車道の韮崎インタを下り、左折し県道27号線を進みます。1.5km先東中学校前の信号を直進して国道141号線に入ります。1300m先が七里岩トンネルで、東中学校前の信号から1.2km先が一ツ谷の信号で、ここを右折し国道20号線に入ります。800m先、韮崎市役所前の武田橋北詰の信号で右折し県道602号線に入り武田橋で釜無川を渡ります。橋を渡ると武田橋西詰の信号で県道は右折です。道なりに2.1km先の信号で県道12号線を直進し、800m先が武田八幡神社です。神社の駐車場から南の山が城跡です。南へ進むとすぐに右折して進みますと、獣防止のフェンスがあり、ここにゲートがあります。ゲートを開けて進みます。100mほど先、左手の小さな橋を渡り、別荘地?なのか数件の家の横を進みます。200m先を左手に入ります。(標識があります) 左手に入ったらすぐに左に登る山道があります。ここを登って行くと城跡です。 白山神社側からは道は急ですが、判りやすいです。ただ、駐車可能な場所は少し遠くなります。
|
訪城備忘録 |
2002年の一度訪れましたが、その時は時間が無くて途中断念になった城です。まずは、武田八幡神社に行きましたが、人ひとりいませんで、野生のサルが40頭以上屯してました。城跡は、尾根に登ってすぐに三の郭外側の堀切が見え、その先の堀切も重ねて見えます。三の郭と主郭の虎口郭の間の堀切には明瞭な土橋が残り、三の郭南北には横堀がありますが、これは武者隠しでしょうか? 主郭虎口郭は右手に武者隠しの膨らみがあって、主郭への進路は左に屈折し、さらに、主郭切岸沿いに右に進みます。ただ、この虎口郭からストレートに入る虎口も存在したようで(今は明確ではない感じ)、導線が屈曲していると断言できませんが・・。どちらにしても、この郭は、戦国後期の構造でしょうな。主郭は楕円形で周囲を土塁が巡っています。二の郭の南側が高い土塁、その先には幅のある堀切があります。主郭北側斜面、南側斜面には畝状竪堀になっていますが、明瞭に残っているというほどではなかったです。白山神社側に少し降りていくと斜面に段郭、土塁、竪堀、竪堀を繋いで段郭の下に横堀のような窪みも認められますが、倒木が多く、写真には撮りきれませんでした。なお、この一帯は熊の生息地のようです。熊の活動時期にはいくら比高が低いからと言っても軽装での登城は避けた方がいいようです。
2016年再訪しました。変わらぬ光景に癒されました。
|
武田八幡神社側登り口
|
|
新羅三郎(源)義光から始まる甲斐源氏、義光の孫の清光は甲斐の逸見荘に入り逸見源太清光と称し、清光の次男の信義が保延六年(1160年)に武田荘へ入り、武田太郎信義と名乗り、この地に居を構え、詰めの城として白山城を築いたとされます。文治二年(1186年)に信義が死去し、居館・白山城とも一時廃城になったようです。その後、一条氏(信義の次男の忠頼が始祖、武田信長が再興)、武川衆の青木氏、山寺氏が城主となったとされます。天正十年(1582年)の武田氏滅亡後は、徳川家康に従った山寺氏の所領であったようです。城は寛永年間(1661〜73年)頃に廃城になったとされます。
|