武蔵 | 八王子城 |
ファイルNo2036 |
関東屈指の石垣の山城
@ はちおうじじょう |
道案内 ←無料駐車場の位置 | ||||
中央自動車道の八王子インタを下り、国道16号線旧道を八王子市内に向かいます。2.5km先の八幡町の信号で右折し国道20号線に入ります。5.6km先、高尾駅手前の町田街道入口の信号で右折し、さらに700m先の多摩森林科学園前の信号で右折し県道46号線に入ります。1.1km先の城山大橋の信号で斜め左に入り、県道61号線に入ります。700m先で中央道の高架をくぐるとすぐの八王子城跡入口の信号左折します。道なりに1.2km進んだ右手に無料駐車場があります。駐車場からさらに徒歩で進むと管理棟があり、ここに城跡案内パンフが置いてあります。ここから右手に進むと主郭山頂方面、いったん川側(左手)におり、奥へ進むと御主殿です。 |
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訪城備忘録 | ||||
広大な城域ではありますが、未完成の城という感じがします。駐車場から進むとすぐに管理棟があります。ここに説明板があり、パンフが設置してあります。 御主殿へはいったん左側の川筋に下り、川を渡って大手門付近から曳橋に向かいます。曳橋を渡ると御主殿下の虎口石垣です。積み直されていて綺麗すぎる感もありますが、関東では少ない石垣の戦国の城を実感させます。この奥に滝があります。落城時に多くの女性が身を投げたと言われる滝ですが、思ったより小ぶりです。石段を登ると御主殿です。相当に広い空間で土塁に囲まれ、山側には石垣の痕跡が残っていました。 御主殿から金子丸への細道を抜けると金子丸下の梅林に至りました。もう花がついて春を感じます。金子丸から山上まで ややきつい道を登ります。帰りの際に登城道にある曲輪の斜面に下りてみると、しっかりとした石垣が諸所に残っています。山上手前では、眺望がすばらしい箇所があり、遠くは新宿新都心の高層ビルまで望むことができました。八王子神社付近が主要部です。松木曲輪からの眺望もいい感じです。八王子神社裏手を登ると本丸ですが、狭い平坦地で天守台というわけでもなく、山頂の監視所という感じです。本丸の北側下には小宮曲輪がありますが、細長い曲輪で、主要部を守る郭ではありますが、技巧的な感じではなく、現在は藪状態で見るべきものはありませんでした。 松木曲輪からさらに奥に進みます。いったん下って尾根を進みますが、竪堀状の急斜面に水が流れています。この地点から御主殿への道にも多くの郭、石垣の遺構があるようですが、こちらからは斜面の道が崩壊していて行けません。別のルートで降ります。(後述) 尾根を進むと駒冷やしと呼ばれる堀切に至ります。石垣以外では初めて城らしい箇所という感触です。さらに奥へ尾根を進みます。急斜面に石が散乱しているところを登ると通称大天守です。この周り、以上に石が散乱していますが、当然、石垣が崩落したものですが、この周辺だけ異常にという感じであり、城全体が未完成であったと感じます。大天守の裏手にも大きな堀切がありました。尾根が高尾山方面に続きます。 松木曲輪までいったん戻り、松木曲輪下に木の根を掴みながら下りていける道があります。ここを下りて進むと中腹の八王子城慰霊塔に出て、さらに下りて行くと斜面に石垣が重なりあって残っています。斜面の土止め石垣にも見えますが、案内所で聞くと当時のものだそうです。この道は主殿に出ました。管理等の反対側の根小屋には八王子城のジオラマが設置されています。城域としては広大であり、一日では見て廻れない広さです。この城は小田原の役の際に一日で落城しましたが、確かに、ここを千人程度の守兵で守るのは逆に至難の業だったでしょうね。 なお、御主殿の反対側尾根にある太鼓郭に行けてません。尾根上に最低5条ほどの堀切があるようです。 |
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天正十五年(1587年)に北条氏康の三男の北条氏照が築城したとされます。これは、永禄十二年(1569年)に滝川城を武田信玄に攻められた際、防御の弱さを感じて八王子に新城を築城し、ここに移ったとされるものです。天正十八年(1590年)に豊臣秀吉の小田原城攻めに際し、前田利家らに攻められましたが、城主氏照は小田原城に詰めており、守兵一千程度であった事もあり、一日で落城しました。小田原の役後に関東は徳川家康の領地となり、八王子城は廃城になりました。 |
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