道案内 ←駐車場 |
上信越自動車道の上越高田インタを下り、料金所すぐの信号を右折し県道85号線に入ります。約5.2km先の交差点で県道85号線は右折します。約400m先で右折し約100m先を左折、少し登ると左手が斐太神社、右手に斐太史跡公園の駐車場があります。ここから徒歩で約400m先(登り)の総合案内所まで行きます。案内所からさらに奥に進み高速道路のガードをくぐり、山道を比高で120mほど進むと主郭です。
近くにある勝福寺は鮫ケ尾城の平時の居館は立ノ内館 と言われます。遺構等はないようですが、景虎の供養塔があるようです。
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訪城備忘録 |
登城ルートは道案内以外に案内所から南側に進み、宮内池の東側から入り、城跡の東側尾根端にある斐太遺跡を通って東尾根を進んで主郭に入るルートとこれは大手道と言えるんでしょうけど、龍町側から入り、南遺構群を見ながら登り虎口郭・三の郭(丸)に至るルートがあります。龍町からのルートは距離は短いですが急な坂道のようです。結果、南遺構群は廻れませんが、「案内所ー東尾根遺構群ー主郭周囲遺構ー北遺構群ー案内所」で一周でき、一般的コースのようです。
麓の斐太史跡公園や主郭・米蔵周辺は「かたくり」が自生していて、訪城時は4月の半ばでしたが、まだ残雪が残っていながら、桜は咲き、かたくりも花を咲かせていて、多くの花鑑賞の方もおいででした。皆さんのお目当ては「白の花のかたくり」のようです。
さて城跡ですが、山頂の主郭から北側の遺構群、東尾根の遺構群、主郭の南側下二の郭・三の郭・虎口郭の範囲、及び、虎口郭から龍町に下りていく南郭群になるようですが、今回は私も南郭群には行きませんでした。
北側麓から登って行くと西の郭下に至ります。堀切があり、この西側斜面にはさらに下にもうひとつ堀切があります。西の郭から少し登ると主郭と米蔵の北下に帯郭が横たわってます。主郭と米蔵の間に堀切があります。主郭も米蔵も土塁はない感じです。主郭の南側下に、二の郭(丸)、三の郭(丸)などがありますが、ここへは主郭の東下を下りて、東下の堀切から南へ落ちる堅堀沿いに下りていきます。堅堀は相当に長く規模の大きなものです。 主郭下の二の郭、さらにその下の三の郭、そのまた南下に虎口郭があり、虎口郭の虎口から南郭群へ行くと言う大手道になる感じです。虎口郭と同じ平坦地で三の郭の東下には大きな井戸が残ります。三の郭には土塁が西側にあります。
東尾根に戻り、尾根を進みます。途中のピークは東一の郭(丸)があり、その南側の付属郭との間に堀切がありました。さらに東へ進むと土塁を伴う大きな堀切があります。この堀切を越えて尾根を進みます。小規模な堀切を越えると左手がピークになっていて、東の二の郭(丸)という事だと思います。この先に東尾根で一番大きな堀切があります。ここから落ちる堅堀も長いです。あとは東の尾根端まで小郭と堀切が交互に来る感じです。東尾根端の先の斜面は斐太遺跡と言う弥生時代の集落遺跡になります。ここを越えて宮内池の端を通り総合案内所に戻れます。
今回訪城に当たって場所などは確認しましたが、遺構等の予習はしなかったんです。鮫ケ尾城は、上杉景虎の自刀の城とは知っていたんですが、イメージは最後の抵抗のための小城的なイメージを持っていたので、城の規模の大きいことに正直驚きました。さすがに信越国境近くの城と言う事で堅固な城が必要であったという事ですね。
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主郭の城址碑
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築城時期は定かではないようですが、長尾為景、上杉謙信時代のいずれがでの築城と考えられますが、天文二十一年(1552年)の第一次川中島の合戦の頃までには存在したのではとは思われます。天正六年(1578年)、上杉謙信が死去し、その後に起きた後継者争いである御館の乱で、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子)が争いますが、天正七年(1579年)、景勝が景虎を追い詰め、景虎派であった堀江宗親が城代をしていた鮫ケ尾城に迎え入れるも、結局は景虎はこの城で自刀しました。その後、城は廃城になったようです。
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