道案内 ←根小屋登り口 ←栗山登り口 ←根小屋主郭 |
北陸自動車道の糸魚川インタを下り、国道148号線の信号を左折し大町方面に進みます。約10km先、根知谷入口の信号を左折し県道225号線に入ります。すぐに大糸線の踏切を越え、踏切の先すぐを右折し斜め左方向に進みます。800m先が根小屋会館という公民館でここに説明板があります。この50m先を山の方に入ります。300m先左手に駐車場、右手に登り口があります。(根小屋登り口)
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訪城備忘録 |
根知城は根小屋城、上城山城、栗山城を合わせた総称で言われます。 本城と言えるのは根小屋城ですが、この城も尾根筋に大規模に展開されています。上城山城は詰め城、栗山城は別名「ウツグラ館」と呼ばれ、村上義清は謙信から山浦という名をいただいており、この山浦が転じたのではないかとされ、義清はこの館に居住したのではないかと言われるようです。いずれにしても大手である根小屋口から根小屋城(比高270m)・上城山城(比高450m)・栗山城(比高70m)と一周するように巡ると5時間近くかかると覚悟して登ってください。また、私の訪城は6月でしたが、草木は伸び、大堀切が全く見えない状態でした。時期も考える必要がありますが、クマの出没もあり、いろんな意味で準備・注意して登城が必要です。
さて、城跡ですが、根知城根小屋口の石碑のところからつづれ道を登って行きます。これだけでもけっこうな坂道です。まずは三の郭に着きます。三の郭虎口で登ってきた道とは違う道に少し下りると大きな堀切・土橋があります。草木が伸びていてもけっこう明瞭でした。土橋側面には石積みもされているようです。三の郭は大変広い郭です。また、広範囲に郭が広がっているように見えますが藪で歩けません。これを過ぎて大きな切岸の上が二の郭で殿屋敷と呼ばれます。ここは三の郭ほどではないですがやはり広く、三段くらいになっていて、初段と二段目の低い切岸には石垣が残っていました。殿屋敷という標識のところはもう藪藪でした。過ぎるとまた大きな切岸を登り、ここから主郭までいくつかの段郭を見ながら登ります。主郭には三角屋根の小屋が建てられていました。中で休息させていただきましたが、囲炉裏もあり、調味料なんかや、いろんな山道具が置かれてました。主郭背後に上段があり、その背後の尾根側に堀切がありました。さらに登って行くと詰郭になります。この登り道、左側は尾根、反対側は急な崖で遠くに姫川が見えたりしますが、落ちたら助からないほどの急斜面です。詰郭も草ボウボウでしたが、眺望はよく、上城山側に土塁が残っています。 この詰めの郭から尾根は急な斜面をいったん下ります。10m以上の斜面で一応ローブはありますが、相当にきつい斜面です。この下はこの城の最大の見どころかもしれない三重堀切ですが、訪城時は草木が伸びすぎて藪状態、堀切は埋もれてました。
ここから再び尾根道を登って行くと上城山城で、途中に小郭的な箇所があり、眺望がよい場所があります。小郭から城山を目指したんですが藪がどんどんきつくなるため、直前で断念し、栗山への下り道を下りました。(正確にはその道の分岐点までも行けず、先人が開いた斜面を赤テープを頼りに道なき道を進みましたら栗山への道の途中に出ました。)
上城山城は城山山頂を主郭に数段の段郭がある典型的な連郭式の山城で主郭と副郭、副郭と次の郭の間にそれぞれ堀切があるようです。根知城塞群の詰めの城ということですね。
城山から栗山への下っている道の中腹、水源地のような箇所の斜面に何段かの平坦地と斜面に石積みの痕跡が見られます。畑の跡か?寺の跡?、それとも集落の跡?、よくわからん箇所です。 さらに下りていくときれいな林道に合流し、その途中に古びた「ウツグラ館」の標識があり、そこを入っていくと栗山城です。ここは館城という感じで、主郭の全面も平坦地が広がり、屋敷地でもあったような広さです。主郭手前も窪みがあり堀があったようです。また、石積みの痕跡のような石もあります。主郭には「ウツグラ館」の標柱が立ち、一方に大土塁がありました。主郭の外側には沼地状の空堀が周囲を巡っていてなかなかの大きさの堀でした。しかし、ここの一体も夏草が伸びてしまって草に覆われてました。元に戻り林道を下りると根知城栗山口の石碑があります。そのそばに白山神社の鳥居があり、ここからも栗山城に登れますが、草木が多いのは同じです。
北陸・越後の城は冬は雪で、夏場は草木と熊でなかなか訪城しにくい地域です。3月の雪溶けから4月の初めころまでがベストシーズンなんでしょうけど、なかなか合わせるのはむずかしいですが、遺構的には見応えのある城跡は多いですね。
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公民館の説明板
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築城時期は定かではないようです。上杉謙信が武田信玄に備えて築城したと言われているようです。謙信は、永禄八年(1565年)には、天文二十二年(1553年)に信濃を追われ上杉氏の客将であった村上義清を城主にしました。義清は信濃復帰を願いつつ、元亀四年(1573年)ここで没しました。天正六年(1578年)に謙信が急死し、上杉家は御館の乱の後、天正七年、景勝が後継者となり、武田勝頼と同盟を結び、根知城は仁科盛信と安曇野衆が在番し、天正十年(1582年)、武田氏滅亡後は、西方房家、桜井晴吉と城将を務めましたが、慶長三年(1598年)に景勝が会津転封により、越後には堀秀治が入封、根知城には堀清重が入りましたが、慶長六年(1601年)、清崎城が築き移ったため廃城となりました。
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