道案内 |
東名高速道厚木インタを下り、国道129号線を平塚方面に進みます。8km先、田村十字路の信号で右折し県道44号線に入ります。約3.5km先の下谷の信号でも県道44号線を進みます。<注意>( 県道で進むように書くと県道44号線をさらに約3.5km進んで桜谷の信号で左折し県道61号線に入って約2.1km先の岡崎の信号ということになりますが、下谷の信号付近から路地に入って下平間地区を横切り県道61号線に出たほうが近いです。) 岡崎の信号で斜め右に入り、約500m先の路地に右折します。(角に案内板があります) 道なりに約600mほどで無量寺です。(諸所に案内板があります)
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訪城備忘録 |
無量寺の本堂裏手の墓地のさらに奥に遺構があります。どこが主郭になるのかよく分かりませんが、墓地の西側、現在は畑になっている郭、その南側を降りて行くと堀切があり、その南側にも郭、さらに先に堀切があって、まだ向こうにも郭が残っているようですが、蜘蛛の巣に閉口してあきらめました。畑の西下も帯郭か横堀形状ですがはっきりとしません。いずれにしても、平塚、厚木、伊勢原のこの周辺では一番遺構の残っている城跡であるのは間違いなく、連郭式の遺構が確認できます。
岡崎城は説明板では前期と後期に別れていて、前期は岡崎神社周辺を中心とした城、後期は無量寺を中心とした城で、城域としては双方とも入るという大きな城と書いてありました。無量寺と岡崎神社は今は住宅地ですが谷を挟んだ反対側になります。これだけの範囲をひとつの城だったら確かに大きな城だな。岡崎神社も高台にあり、城跡と言われればそんな地形ですが遺構はありません。神社下のコミニュティセンターに岡崎四郎義実の銅像が建ってました。
義実の墓は無量寺から西側へ直線距離で約300mの住宅地の背後にあります。
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説明板と碑
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前期の岡崎城は源頼朝の家臣の岡崎義実が平安末期から鎌倉初期の頃に築城したとされます。岡崎義実は三浦義継の四男で岡崎を領して岡崎氏を名乗ったとされます。後期岡崎城は明応三年(1494年)三浦道寸(義同)が旧城を改修して居城としたとされます。永正九年(1512年)に相模に進出していた北条早雲に攻められ落城、道寸は住吉城、新井城と逃れ抵抗しますが、永正十三年(1515年)に新井城を北条氏に攻められ三浦氏は滅亡しました。岡崎城はその後北条氏の支城であったようですが廃城時期は定かではないようです。
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