相模 河村城



ファイルNo1450

        畝堀の堀切 

@ かわむらじょう 
  別名 

A住所:足柄上郡山北町山北
B目標地点:盛翁寺
C形式:山城  D比高:駐車場から70m 
E現況:山林・公園

F遺構等:郭・堀切・土塁・碑・説明板
G時代/人物:平安期/河村氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から10分

J撮影・訪問時期:2006年05月・2009年03月

  

道案内 

東名高速道の大井松田インタを下り、国道246号線を御殿場・沼津方面に進みます。10km先の山北駅そばの宮地の信号を越え、800m先の側道に下りて左折します。(宮地の信号を斜め右折し、200m先を左折し山北役場前を越え、山北駅前を越えて200m先を左折し、国道246号線のガードをくぐったところ) 200m先が盛翁寺で、左手を過ぎて200m登ったところが河村城址公園の駐車場です。

訪城備忘録

前回は雨で登城を断念しましたが、今回は快晴での訪城となりました。整備された道を登って行くと茶臼郭の下に至ります。畝堀の大きな堀切が見事です。(整備はされてありますけどね) 主郭はL字になっていて、西側にはあまり明瞭ではないですが馬出し郭と西郭群があり、堀切がはっきりしています。この周辺は整備がされていませんので、ありのままの姿です。東側は蔵郭から大庭郭など広い郭が連なりますが、訪問時は整備中でした。北条の城が明瞭な形で楽しめる城跡です。

城址碑
歴史

平安末期に秀郷流藤原氏の一族で波多野遠義の二男の河村秀高が築城したと伝わります。秀高の子義秀は、源頼朝の石橋山挙兵の際に平氏方に属したため領地を没収されましたが、建久元年(1190年)に鎌倉で流鏑馬の妙技により本領の河村郷に復帰できたとされます。南北朝期には河村氏は松田氏とともに南朝側の新田氏として戦いますが、北朝側の足利尊氏に鎌倉が陥落すると、河村秀国・秀経らは新田義興・脇屋義治らと共に河村城に籠城しました。正平七〜八年<北朝元号:文和元年〜二年>(1352〜53年)に畠山国清を主将とする足利尊氏軍に南原の戦いに敗れました。城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の家臣の大森憲頼が入りました。明応四年(1495年)に北条早雲が大森藤頼を急襲し小田原城を奪い、それ以後、河村城は北条氏の属城となったと考えられます。永禄十一年(1568年)に甲相駿三国同盟が破られ、永禄十二年(1569年)には小田原城が武田信玄に攻撃され、元亀元年(1570年)には武田氏に深沢城を奪われるという事態となり、この頃に大規模な改修がされたと考えられます。しかし、天正十八年(1590年)の小田原の役の際に落城したと考えられます。

   主郭遠景          主郭と蔵郭の間の堀切
茶臼郭と畝堀の堀切
  
現地案内板より       主郭  
   西郭側堀切       蔵郭側堀切(発掘整備中)
大庭郭

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