磯部城 2653 |
矢部館 2652 |
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A相模原市中央区上矢部4丁目 B薬師堂 東名高速道の町田インタから国道16号線を八王子方面に進みます。15km先、淵野辺の信号で右折し、県道57号線に入ります。3km先の根岸西で左折し都道47号線(町田街道)に入ります。2.1km先、常盤の信号で右折し、800m先左側、薬師堂バス停のところに土塁が残ります。 |
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C平城 F遺構等:土塁・説明板 G鎌倉期/矢部氏 H満足度:凸 鎌倉期、横山党 武蔵七党という武士団のひとつ横山党も支族で、横山兼続の孫の義兼が当地に移り、矢部氏を名乗った。矢部義兼は建暦三年(1213年)の和田合戦で破れ討死したとされます。 *和田合戦:鎌倉初期、和田義盛を首謀とする鎌倉執権北条氏に対する乱。 |
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J訪城:2011/06 | ||||
淵辺館 2651 |
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A相模原市中央区淵野辺本町5丁目 B水道施設 東名高速道の町田インタから国道16号線を八王子方面に進みます。15km先、淵野辺の信号で右折し、県道57号線に入ります。2.2km先、淵野辺本町二丁目の信号を右折します。400m先で右折し、30m先を左折した坂を50m登ると左手、水道施設のフェンス脇に城址碑と説明脾があります。 |
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C平城 F遺構等:碑・説明碑 G南北朝期/淵辺氏 H満足度:凸 南北朝期に淵辺義博はこの地の地頭でした義博は足利直義の家臣で、建武二年(1335年)に幽閉されていた護良親王を殺害し、後、駿河で討死したとされます。伝説では親王を奥州石巻にお逃ししたとも伝わります。 |
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J訪城:2011/06 | |||