常陸 牛久城



ファイルNo2190

郭の広さ・土塁も高さ・堀の深さなどの遺構が非常に良好に残る古城

                   二の郭虎口土塁  

@ うしくじょう 
  別名 

A住所:牛久市城中町
B目標地点:得月院
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:山林・宅地

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁・説明板
G時代/人物:戦国期/岡見氏
H満足度: 凸凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  三の郭説明板のところから5分

J撮影・訪問時期:2009年07月

  

道案内 

圏央道のつくば牛久インタで下り、大井北の信号を左折し国道408号線に入ります。5km先の学園都市南入口の信号で右折し国道6号線に入ります。2.8km先の牛久駅西出口の信号で右折します。700m先の刈谷大橋バス停のところで斜め左に入ります。2kmほど進んだT字を右折します。300m先の信号(そばに牛久城中のバス停)を左折します。750m先の斜めT字(ここは牛久城大手門の場所)を右折した100m先が得月院です。得月院から400m先がト字の交差で、直進しますが道はせまいようです。200m先を左折、さらに200m先を道なり右折し、300m先に三の郭説明板のところです。
 
訪城備忘録

訪城は2009年7月です。この最近、竹薮が伐採されたようで、大変遺構が見やすくなってます。他の方のホームページを見ると一面竹薮ですが、訪城時には広大な主郭・二の郭の郭面と土塁の上まで竹は伐採されており、空堀についても間伐されていて、大変見やすく、虎口の土塁、土橋も良好な形で見学できました。城の主要部は牛久沼に突き出した丘陵先端を主郭(主郭の東側は土砂取りで破壊されているようです)とし、北に向かって二の郭・三の郭、及び二の郭西側に腰郭と縄張りは単調ですが、前述したように郭は大変広く、土塁は高く、堀は深く、茨城でも屈指の遺構を残す城と感じます。外郭部の城域はさらに広く、得月院付近から牛久陣屋のあった付近(河童の碑のある付近)まであったようです。その外郭の空堀の一部などが残っています。なお、訪城時は道案内の三の郭からではなく、国道6号線の龍ヶ崎市と牛久市の市境にある路地に入り、元気館という老人施設手前の集落から城域の南端に登れる道があり、ここから登りました。

三の郭の説明板
歴史

天文年間(1532〜55年)の後半に岡見頼勝によって築城されたとされます。岡見氏は小田氏の配下でしたが、天正元年(1573年)、小田氏が佐竹氏に滅ぶと、その後は後北条氏の勢力下に入り、佐竹氏家臣の多賀谷氏と争いました。天正十八年(1590年)の小田原の役の際、牛久城も攻められ落城しました。その後、豊臣秀吉により由良国繁を入封しましたが、元和七年(1621年)に国繁の子の貞繁が死去し、由良氏は無嗣絶家となり、牛久城も廃城となりました。寛永五年(1628年)に山口重政が一万五千石で入封し、牛久陣屋を築き、山口氏は明治維新まで存続しました。

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現地案内板より     二の郭空堀
   主郭土橋           二の郭と三の郭の間の堀
牛久陣屋周辺
河童の碑         陣屋周辺

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