常陸 神宮寺城



ファイルNo2188

              土塁(手前は空堀)   

@ じんぐうじじょう 
  別名 
A住所:稲敷市神宮寺
    旧稲敷郡桜川村

B目標地点:
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・土塁・説明板・碑
G時代/人物:南北朝期/(北畠氏)
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
 県道107号線(神宮寺の信号手前)沿いから8分

J撮影・訪問時期:2009年07月

  

道案内 

圏央道の稲敷インタで下り、県道49号線に入ります。700m先の時崎交差点の信号を左折します。2.8kmの信号を直進して400mの荒宿十字路を左折しさらに250m先の信号を右折し県道103号線に入ります。2km先のY字信号を斜め左に入り県道107号線に入ります。4.5km先の右手(神宮寺の信号手前500m)が城跡です。
 
訪城備忘録

説明板のところから奥に進むとすぐに堀と土塁が見えます。堀も土塁もL字に廻っていて、これに囲まれたところが主郭のようです。土塁の上には「北畠」の碑があります。主郭から堀をはさんで東の郭、南側の堀をはさんで南の郭が現在の遺構です。南の堀は南の郭を巡り様に折れ、さらに途中でも折れが入っています。南の郭も堀に沿って土塁が巡っています。東の郭は隣接する工場の敷地になってしまっているのか土塁は認められますが、全体が分かりにくい感じです。この城は南北朝期の城と言う説明板の記述ですが、今も残る深く明瞭な堀と高さのある土塁、居住性を感じる空間からしてもその後も使用されていたように感じます。

説明板(背後が城跡)
歴史

築城時期、築城者ともに不明ですが、南北朝期、南朝方の関宗祐(関城)、小田治久(小田城)、下妻政泰(大宝城)、伊達行朝(伊佐城)などと、北朝方の佐竹義篤(太田城)、結城朝祐(結城城)、大掾高幹(府中城)らとが激突していましたが、後醍醐天皇は、南朝方として北畠親房を派遣しました。東条氏に迎えられて入城したのが、神宮寺城とされます。北朝方の佐竹義篤、大掾高幹、烟田時幹、鹿島幹寛、宮ヶ崎幹明らの軍勢に攻められ、親房は阿波崎城に移り、ここもすぐに攻撃され、親房は小田城に逃れたとされます。

主郭と東の郭の間の堀    主郭と南の郭の堀の折れ部分
   土塁と堀      土塁の上に建つ「北畠」の碑
主郭と南の郭の間の堀
南の郭の土塁
  

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