陸奥磐城 長沼城



ファイルNo2503

           主郭土塁   

@ ながぬまじょう 
  別名 千世城、牛臥城 

A住所:須賀川市長沼
    旧:
岩瀬郡長沼町長沼
B目標地点:長沼小学校
C形式:平山城  D比高:60m 
E現況:山林・学校・宅地・田畑

F遺構等:郭・石垣・堀・竪堀・土塁・説明板・碑
G時代/人物:鎌倉期/長沼氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分
J撮影・訪問時期:2010年07月

  

道案内 

東北自動車道須賀川インタを下り、国道118号線を西に進みます。約16km先で橋の手前で斜め右へ長沼市街地に入ります。700m先で右折し700m先の長沼小学校を越えた裏手が登城口です。
 
訪城備忘録

近世まで使用された城であるため、主郭・二の郭・腰郭などの主要郭はけっこう広いという印象です。一部石垣も残っています。また、平地の中堀、外堀の一部の土塁が明瞭な形で残っていました。訪城が夏場でしたので多くを夏草に覆われていたのが残念ではありました。

登城口の説明板と碑
歴史

築城時期は文応元年(1200年)に長沼氏によって築かれたとされますが、南北朝期という説もあり定かではないようです。永禄九年(1566年)葦名盛氏は家臣の新国貞通を城代にしました。天正17年(1589年)に葦名氏が滅亡、天正十八年には豊臣秀吉の奥州仕置きで伊達氏も移封となり、会津領は蒲生氏郷が入封、長沼城には蒲生郷舎、蒲生主計が城主になりました。慶長三年(1598年)に上杉景勝が会津に入封、長沼城には景勝の家臣の島津忠直が入りました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い後、会津領は再び蒲生氏<秀行>の所領となり、長沼城には蒲生郷治、玉井数馬介が城主になりましたが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。<現地説明板より若干加筆>

三の郭                 主郭南下腰郭
主郭                  主郭石垣
主郭から二の郭を見る              虎口状    
主郭下ニノ郭側石垣             多重堀とその土塁 背後は城跡

  

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