陸奥岩代 会津若松城



ファイルNo2031

戊辰戦争激戦の地

                        内堀    

@ あいづわかまつじょう 
  別名 鶴ケ城・黒川城・若松城・会津城 
A住所:会津若松市追手町
B目標地点:
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・公共施設・市街地

F遺構等:郭・堀・土塁・石垣・復元天守・碑・説明板・移築櫓など
G時代/人物:南北朝期/芦田氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から10分
J撮影・訪問時期:1978年09月・2010年07月
            2011年04月

  

道案内 =駐車場の位置(西出丸)

磐越自動車道の会津若松インタで下り、国道121号線を南下します。700m先の観音堂の信号で左折し国道49号線に入ります。1.4km先の北柳原の信号で右折し国道118号線に入ります。5km先で左手が城跡です。駐車場には城跡手前の信号で左折し、300m先の北出丸の信号で右折し、城内一方通行に従い進むと西出丸の駐車場に至ります。(北柳原からさらに700m先の郷の原の信号で左折し県道64号線(富士通り)に入り5km先の信号で右折し700m先の信号で左折した先が三の丸駐車場です。) 

訪城備忘録

遠き学生時代に一度訪れたのみで記憶も定かでなかった城に再訪できました。しかし、日頃、近世城郭はあまり興味が無い、まして、復元天守はどうも・・。と言っているわりには天守が工事中でテントに覆われているのを見たら少し残念・・・(笑) 東北の名城、堀、土塁、石垣は大きく、深く、巨大です。廊下橋から見る水堀と高石垣は印象深いです。大きな西出丸、北出丸がここまできれいに残っているのもあまり無いでしょうね。日没過ぎた夕方に到着し、三の丸駐車場側から駆け足で見学し、翌朝朝早く西出丸から北出丸へと散歩し、次の城に行かせてもらいました。まさしくスタンプラリーです(自爆) 城下町と古城、また今度はゆっくり歩きたいものです。

<2011年4月再再訪>
震災のすぐ後で少し気が引けたんですが。復元天守の工事は3月に終わり、この日、桜が咲き始めていました。甲賀町口石垣など市内に残る史跡を少し見学させていただきました。甲賀町、蒲生氏郷が入封してからの名前とはわかっていても、東北の地で滋賀の地名を聞くのはなにか新鮮です。

城址碑
歴史

至徳元年(1384年/南朝:元中元年)に芦名氏7代の直盛が築いたとされます。盛氏が拡張し本格的な黒川城にしたとされます。天正十七年(1589年)に伊達政宗は芦名義弘を攻めて黒川城に入りますガ、翌年に豊臣秀吉の命でこの地は没収されました。蒲生氏郷が入り、文禄元年(1592年)から大改修しました。慶長三年(1598年)氏郷の死後、子の秀行は宇都宮に転封となり、上杉景勝が120万石で入りました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い後に上杉氏は米沢30万石に減封され、慶長六年(1601年)に蒲生秀行が再び入封しましたが、寛永四年(1627年)に蒲生忠郷が死去し、秀行の弟の忠知は伊予松山に転封、代わって伊予松山から加藤嘉明が入ります。子の明成は寛永二十年(1643年)に改易され、保科正之が出羽山形より23万石で入封、以後、松平氏として明治維新まで続きました。慶応四年(1868年)には戊辰戦争の激戦地となったところです。

なお、岩代というのは明治になって設置された国名になるようです。
 復元天守(1978年撮影)      内堀と石垣  
   磐梯山遠望      五色沼(1978年撮影)
  
二の丸の堀と土塁
  東門          東門横から空堀
本丸と二の丸の水堀       廊下橋  
廊下橋        本丸の石垣
二の丸堀
復元天守
復元天守
廊下橋と石垣     復元鉄門 
大手門石垣       内堀
大手門渡櫓石垣         本丸
復元付櫓        本丸水堀
北出丸虎口
北出丸と本丸との土橋      市内に残る三の丸土塁
西郷邸跡          甲賀町口石垣

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