出羽・羽後 米沢城



ファイルNo4192


               内堀             

@ よねざわじょう 
  別名 舞鶴城・松ケ岬城
 
A住所:米沢市丸の内1−4
B目標地点:松が崎公園・上杉神社
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公園・公共施設・宅地

F遺構等:郭・堀・土塁・説明板
G時代/人物:期/氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から8分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  

道案内     ←上杉家御廟所

東北中央自動車道の米沢中央インタを下り、県道1号線を米沢市街地方面に向かいます。<県道1号線は途中で県道152号線に入ります。>約2km先の米沢市役所前の信号で左折します。約1.5km先の信号で右折し平和通りに入ります。約700m先の信号を左折します。約300m先を左折した約100m先左手が駐車場です。

訪城備忘録

本丸内は上杉神社が鎮座し、松岬公園になってます。本丸の水堀、土塁が残りますが、それ以外の遺構はない感じです。米沢城より北西方向に約1.5kmのところに上杉家御廟所があります。明治に移された謙信の廟を中心に、景勝、鷹山(治憲)など、歴代の藩主の廟があります。

直江兼続と上杉景勝の像
歴史

築城時期は定かではないようです。鎌倉期の暦仁元年(1238年)、大江広元の子の時弘が長井の地頭職となり、この地で長井氏を名乗り、米沢城を築いたとされるようです。

室町初期、梁川城に本拠を置いていた伊達宗遠に攻められ、八代長井広房は追われて、この地は伊達氏の支配となったようです。

天文十七年(1548年)、伊達晴宗が桑折西山城から米沢城に本拠を移したとされます。但し、この米沢城は、現在の米沢城か館山城かが不明のようです。

天正十九年(1591年)、豊臣秀吉の命政宗はで転封となりました。米沢は蒲生氏郷の領地となり、蒲生郷安が七万石で入りました。慶長二年(1597年)、氏郷死去後、蒲生秀行は宇都宮に転封となり、会津には上杉景勝が入り、米沢城の城主は直江兼続が城主となりました。慶長五年(1600年)の関ケ原の戦い後、景勝は米沢30万石に減封され、明治維新まで上杉氏がこの地を治めました。

土塁       水堀
現地案内板より
  
内堀(北側)
土塁
西側の土塁
上杉謙信御堂があった本丸東南の高まり
上杉謙信御堂跡      上杉謙信像
本丸の東側から南側
本丸の東側から北側
上杉家御廟所
上杉謙信廟所
堂森山館 f4193
@ どうもりやまだて 
  別名  

A住所:米沢市万世町堂森
B目標地点:善光寺
C形式:丘城  D比高:40m 
E現況:山林

F遺構等:(郭・堀切?)・前田慶次郎供養塔
G時代/人物:ー期/ー氏
H満足度:途中断念

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:ー

J撮影・訪問時期:2025年04月
                              善光寺

東北中央自動車道の米沢八幡原インタを下り、左折し、国道13号線に入ります。約2km先の信号を右折します。約1.2km先のT字を斜め左へ入ります。約600m先の右手が善光寺です。

ここは前田慶次郎の墓(供養塔)を見学しにきたんです。小さな祠に供養塔が安置されていました。近くに慶次郎が晩年住まいとしたと言われる無苦庵跡もありましたが、スルーしてしまったです。館としては尾根上に削平地があり、西側に月見平と呼ばれる頂き、尾根の東端からの段郭状の平坦地が何段かあるようです。


歴史としては詳細不明です。善光寺が長井氏によって建立されてますので、長井氏関連かもしれません。

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