出羽・羽後 庄内 砂越城 



ファイルNo4145


              主郭土塁              

@ さごしじょう 
  別名  

A住所:酒田市砂越楯ノ内
B目標地点:諏訪神社・長応寺
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:神社・宅地

F遺構等:郭・土塁・標識・説明板
G時代/人物:平安・鎌倉期/石黒氏・砂越氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  
道案内 

日本海東北自動車道の酒井中央インタで下り、料金所前の信号を直進し国道47号線を横切り県道40号線に入ります。約4km先の信号で右折し、約400m先の信号を左折します。約200m先を右折し、約150m先、左手が長応寺で右手が城跡です。
 
訪城備忘録

城は大きな単郭の城のように残っていますが、長応寺は二の郭であったようです。主郭の周囲が土塁が巡り、今は水路になってますが堀の名残があります。 主郭内に休憩所があり、そこにめちゃくちゃ詳しい説明板がありました。また、今は無いのですが、模擬櫓と模擬橋があったようですが、老朽化のため撤去されてしまったようです。

城跡標識
歴史

伝承ではあるが、久寿元年(1154年)、播州の赤松氏の一族の石黒氏が築いたとされるようです。文治五年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、出羽郡司に砂越氏を任じ、砂越城を居城ととし、石黒氏は退去したとされるようです。

嘉吉三年(1443年)、砂越氏信は戦いに敗れ、砂越城は落城し、その後、斯波氏の一族の矢口将監氏盛が城主となりました。永正十年(1513年)、砂越(矢口)六郎氏雄は大宝寺城の武藤大宝寺氏に破れ討死しました。永正十五年(1518年)、武藤氏維が砂越城の城主となり砂越氏を名乗りました。天文元年(1532年)、砂越氏は大宝寺城を攻め、武藤大宝寺氏は本拠を尾浦城に移しました。大宝寺義興は天正十五年(1587年)、最上義光に支援された東禅寺義長に攻められ、義興は自刀し武藤大宝寺氏は滅亡しました。砂越氏も安東氏の元に逃れました。その後、天正十六年(1588年)には上杉氏が庄内地方を攻め、義長は討死し、上杉氏は砂越城に荒川玄蕃を城代として置きました。関ケ原の戦い後、最上氏は上杉氏を追い、最上義光は砂越城に荒井右衛門が城代となりますが、元和二年(1616年)、一国一城令により廃城になりました。

土塁
  
    本丸碑     休憩所の説明板
主郭内と周囲の土塁

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