出羽・羽前 庄内 鶴岡城 



ファイルNo4139


              水堀と土塁              

@ つるおかじょう 
  別名 大宝寺城 

A住所:鶴岡市馬場町
B目標地点:鶴岡公園
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公園・市街地

F遺構等:郭・堀・土塁・説明板・(碑)
G時代/人物:室町期/武藤氏(大宝寺氏)
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  公共駐車場から10分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  

道案内 ←駐車場

山形自動車道の鶴岡インタを下り、国道7号線に入ります。約800m先の信号を右折し県道47号線に入ります。約3.2km先の家中新町の信号を越え約100m先の信号、左前が鶴岡公園ですが、駐車場は信号を右折し、約200m先を左折し約200m先の両サイドが駐車場です。
 
訪城備忘録

時間は18時ころの訪城でした。加えて、桜の季節、満開ではなかったですが、人が多かったす。南の駐車場から入ったもので東の大手門にある城址や説明板も見てませんし、時間が遅すぎて旧藩校の致道館にも行けてません。 

城跡は鶴岡公園となって、内堀のほぼ全周が残り、外堀の北側から西側が残っています。土塁も残りますが、公園化のものか遺構なのか判別つきにくいものもありました。二の丸南東隅に隅櫓の櫓台石垣が残るようですが見落としました。鶴岡公園の西側にある致道博物館には、移築された洋館(旧西田川郡役所、旧鶴岡警察署庁舎)、藩主隠居御殿の一部、江戸屋敷の赤門などなどが移築されてますが、公開時間はとっくに過ぎていて入れません。

この城跡は訪れた時間も遅い上、夜桜花見の季節で、ゆっくり城跡散策とはいかないこともあり、見落としも多かったです。

内北門
歴史

築城時期は定かではなく、鎌倉初期、この地に地頭として入った大泉(武藤)氏平が築城したとも言われます。その後、室町初期、武藤長盛が築城したともされます。武藤氏は大宝寺氏とも名乗ったようで、武藤大宝寺氏とも言われます。天文元年(1532年)、庶流の砂越氏に攻められ大宝寺城は焼失し、武藤大宝寺氏は本拠を尾浦城に移しました。武藤大宝寺義氏は、天正十一年(1583年)に家臣の謀反により自刀したため、弟の丸岡兵庫頭は大宝寺氏を継ぎ、義興と名乗りました。天正十五年(1587年)、最上義光に攻められ、義興は自刀し大宝寺氏は滅亡しました。天正十六年(1588年)には上杉氏が併合しました。関ケ原の戦い後、上杉氏は減封となり、当地は最上氏が領有する事となりました。慶長八年(1603年)、最上義光は東禅寺城を亀ケ崎城と改称した際に、大宝寺城は鶴ケ岡城と改称しました。元和八年(1622年)、最上氏が改易となり、庄内地方は酒井忠勝が14万石で入封し、酒井氏は明治維新まで続きました。

          御角櫓土塁      三の丸(西側)から水堀と土塁
  
西側内堀
南側内堀/対岸は本丸渡櫓跡
南側内堀
土塁
御角櫓土塁
御角櫓土塁
土塁
外北門
北側中堀
二の丸から内堀越に本丸角櫓土塁
二の丸土塁
 
大宝館 
大宝館
旧西田川郡役場
旧西田川郡役場
旧鶴岡警察署庁舎
旧鶴岡警察署庁舎
旧庄内藩江戸屋敷赤門
民具の蔵

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