道案内  |
山形自動車道の鶴岡インタを下り、国道7号線に入ります。約800m先の信号を右折し県道47号線に入ります。約3.2km先の家中新町の信号で右折します。約400m先の陽光町の信号で左折します。さらに、約400m先の信号で右折し県道349号線に入ります。 約5km先、青龍寺郵便局の前で左折します。約1.8km先を右折し、約200m先の左手が天澤寺、丸岡城跡史跡公園です。
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訪城備忘録 |
城跡は「丸岡城跡史跡公園となっていて、城としての遺構は北側の土塁と堀と思われます。城内は発掘調査に基づき庭園跡や堀、建物跡などが整備されています。 これは加藤忠広の居所としてのものであるようです。
城跡の北側の天澤寺には清正閣というお堂と墓があります。これは忠広が熊本より密かに清正の遺骨(一部とも)を運んだとされるもので、昭和二十年代に発掘調査で遺骨と鎧兜が出土したようで伝承は本物のようです。
「丸岡」という地名は奈良時代に福井の丸岡から移住した人々が居たからのようです。
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説明板
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築城は鎌倉期に武藤氏<大宝寺氏>の支城として築城されたと考えられるようですが、明確なものはないようです。戦国期の大永年間(1521〜28年)に押切備前守が築いたとされます。押切氏が横山城(鶴岡市)に移り、大宝寺兵庫頭が入り、丸岡氏を名乗ったとされます。兄の大宝寺義氏が天正十一年(1583年)に家臣の謀反により自刀したため、兵庫頭は大宝寺氏を継ぎ、義興と名乗りました。天正十五年(1587年)、最上義光に攻められ、義興は自刀し大宝寺氏は滅亡しました。その後、上杉氏の版図となりますが、関ケ原の戦い後、最上氏の所領になりました。城は元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になります。元和八年(1622年)、最上氏が改易となり、庄内地方は酒井忠勝が領します。寛永九年(1653年)、肥後54万石の加藤忠広(加藤清正の嫡男)が改易となり、酒井氏にお預けとなりました。酒井氏は丸岡城に館を築き忠弘の住居としました。承応二年(1653年)、忠広が亡くなるとこの地(1万石の所領)は幕府直轄地となりました。
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