道案内 ←ガイド館・駐車場 |
八戸自動車道の一戸インタで下り、国道4号線を北上します。約10km先、中曽根の信号で右折し県道24号線に入ります。約1km先(二戸大橋を越えた先の信号)の信号で右折します。約200m先で左折し、約100m先を右折して約100mほどがガイド館です。ここから城域に入れる遊歩道があります。※ガイドハウスの終了時間は早いと思いますので注意ください。
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訪城備忘録 |
どうしても九戸政実のイメージが強いまま訪城したんですが、遺構は福岡城の遺構でした。宮野城という名が九戸政実の城で、改修され南部氏の城時代が福岡城ですが、名称的には九戸城が馴染みがありますね。縄張は資料では梯郭式とありますが、本丸・二の丸は確かに梯郭式ですが、全体を見ると東北に多い群郭式に見えます。
ガイド館(往時は三の丸)から城域主要部に向かいます。まずは主要部西下の堀と土塁が南北に伸びています。ここを右手にとって進みます。その後、方向を東に進みます。右手は松の丸、在府小路遺跡(武家屋敷)になりますが、駐車場、墓地等になっていました。ここは深田堀と呼ばれる幅のある堀で、主要部側の切岸も崖のように荒々しいものです。この深田堀を抜けると大手になります。坂道を登ると二の丸です。
二の丸はL字に本丸を囲みます。二の丸、本丸の遺構は福岡城時代の遺構という事になります。本丸は南側から東側にかけて深い空堀があり、側面には石垣が築かれています。野面積みの石垣で、所々、V字に石垣が欠けていたりしていますが、これは破城の痕跡のようです。虎口は南側、東側にあります。南側は幅のある枡形の虎口です。土塁で枡形を形成していますが、側面には石垣が築かれています。この石垣もV字に石垣が欠落したり、隅部も落ちていたりします。これも破城の痕跡です。南虎口は二の丸とは土橋で繋がっていますが、東側の追手門側は堀には木橋が架けられていたようで、枡形も狭い空間です。本丸内は整備され、発掘調査の成果が平面復元されていたりします。二の丸は南側から東側に広がりますが、東側は本丸より広いです。これは福岡城に改修した際に二つの郭をひとつにしたようなくらい広いです。二の丸には明瞭な石垣はありませんが、土塁は西側部分は西側から北側へ土塁が巡ってます。東側部分は東側から西側へ土塁が巡っていて、後者の方は土塁が高いです。二の丸についてはまだ整備が進められていました。二の丸北東側に搦め手があり、坂で下の空堀に繋がります。
二の丸の東側には空堀を隔てて北側に石沢館、南側に若狭館があります。この二つの郭は九戸氏時代の遺構が強く残っているようです。空堀も深く、幅もあり、二の丸に沿って折れの入った空堀でした。今回は若狭館は見てません。搦め手を下りて空堀を北側へ廻ってガイド館へ戻りました。
訪城前のイメージは二の丸・本丸にも高低差があり、複雑な折れの入るか、土塁の防御性のある縄張を想像していたんですが。二の丸の広大さ、二の丸と本丸の同高さでの展開、二の丸と本丸だけですと近世に近い形ですので正直やや拍子抜けしました。
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城域入り口の城址碑
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築城時期は諸説あるようですが、九戸光政が明応年間(1492〜1501年)に築城したとされます。<永禄十一年(1568年)、九戸政実が築城したとの説もあるようです。> 天正十年(1582年)、南部信直が三戸南部氏を継承してから九戸政実との対立は深まりました。 天正十九年(1591年)、前年の豊臣秀吉の奥州仕置に不満をもつ旧大名の残党が一揆などを起こしたものに呼応するように九戸政実は蜂起し今で言う「九戸の乱」を起こしました。南部信直の要請に応え、秀吉は再仕置軍を豊臣秀次を総大将に派遣しました。大軍(一般には6万5千人)に囲まれた九戸城(籠城5千人)は、奇襲、夜襲などで善戦しますが、数の圧倒的違いで、政実が助命を条件に降伏しました。しかし、約束は反故にされ、政実以下首謀者8名は処刑され、城に残った兵も殺戮されたようです。乱終息後、城は蒲生氏郷が大改修し南部信直に引き渡され、信直は福岡城と改称し三戸城から本拠を福岡城に移しました。寛永十年(1633年) 信直の子の利直が盛岡城を築城し本拠を移し、福岡城は寛永十三年(1636年)に廃城となりました。
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