陸奥 三戸城



ファイルNo4175


           鍛冶屋御門石垣             

@ さんのへじょう 
  別名 留ケ崎城  

A住所:三戸郡三戸町梅内城ノ下
B目標地点:城山公園
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:公園・山林

F遺構等:郭・石垣・土塁・堀・
 模擬天守・碑・説明板・(復元櫓門・移築門)

G時代/人物:戦国期/南部氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  山上まで車道で2分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  

道案内 

八戸自動車道の一戸インタから国道4号線を北上して約36km先、あるいは、八戸自動車道の南郷インタから県道47号線で約16km先で国道4号線に入り、剣吉の信号から国道4号線を南下して約15km先、三戸パイパス松原の信号から県道45号線に入り、約800m先の信号で右折し県道258号線に入ります。約1km先の信号で左折し県道134号線にはいります。三戸町役場を左手に見て、約250m先で左折し坂を登って行きます。約1km先が三戸城本丸広場です。

訪城備忘録

車で本丸広場まで登れます。ただ、本丸まで登ると麓から大門までの遺構を見逃してしまう可能性はあります。(私はやってしまいました^^;) 加えて、桜祭りの準備で露店の屋台が並んでいてこれを避けて写真を撮るので歪な写真になってます。^^;

三戸城は熊原川と馬淵川に挟まれた独立の山に見える河川段丘にあります。三戸町は国道四号線から行くと少し下りますので盆地のような感じになります。その真ん中に浸食で残ったところという感じです。車道で登ると大御門跡、本丸まで登れます。大御門は石垣を伴う大きな枡形を持つ大きな門であったようです。江戸初期で南部政直邸の部分に城郭風の民族歴史資料館と模擬天守風の温故館があります。令和四年(2022年)、国史跡に指定されましたが、その際、将来的に歴史上なかった天守風の温故館は取り壊しを要請されています。本丸はL字形で北に伸びています。御三階櫓跡は標識のみでした。北側に一段下がった谷丸があります。

本丸の東へ進むと鶴池、亀池があります。往時は水堀の役目であったようです。さらに下りると鍛冶屋御門があります。大規模な石垣作りの門跡です。

本丸まで登る車道沿いに石垣の痕跡が残り、見上げると斜面にも石垣の痕跡が見えます。ここに綱御門が復元されていますが見落としました。見落としは温故館の北側に残る空堀も見逃しています。さらに、三戸町の龍川寺に表門が移築され、法泉寺には搦め手門が移築されていますが、これも見落としました。今回は来れただけで満足してしまいました。^^;

歴史
城址碑











天文八年(1539年)、南部家26代当主の晴政の時にそれまでの本拠地の聖寿寺館(本三戸城)が焼失し、三戸城に城を築いて移ったとされます。ただ、近年研究では、南部氏の領地拡大と大規模な城郭の必要性から築城されたようです。天正十年(1582年)、晴政と子の晴継が相次いで亡くなったため、田子信直(たつこのぶなお)<晴政の叔父の子>が南部家26代当主の座を継ぎました。天正十八年(1590年)、小田原の役に続く、奥州仕置の中で、豊臣秀吉より南部信直は領地を安堵されました。天正十九年(1591年)、九戸の乱後に蒲生氏郷が大改修した九戸城を受け取り、福岡城と改称し居城を移しました。さらに、寛永十年(1633年) 信直の子の利直が盛岡城を築城し本拠を移しますが、この間も三戸城は城代が居住し維持されましたが、貞享元年(1684年)、城代廃止となり、代官所が設置されました。三戸城は一応廃城という事になりますが、盛岡藩としてはその後も管理・維持したようです。

車道沿いの残存石垣     大御門枡形の石垣痕跡
現地案内板より
三戸城遠望
手前は民族歴史資料館、奥の模擬天守は温故館
  
本丸説明板    御三階櫓跡
大御門
模擬天守
模擬天守
本丸土塁
本丸土塁
本丸土塁
  広場側    搦め手御門 
上段御馬屋
亀池
奥瀬邸
鍛冶屋御門を上から
鍛冶屋御門と奥は鍛冶屋敷
鍛冶屋御門石垣
鍛冶屋御門石垣
鍛冶屋御門石垣
鍛冶屋御門石垣
鍛冶屋御門石垣
谷丸
今はイベント広場(本丸北側)
車道沿いの残存石垣
車道沿いの残存石垣  
尾根上の石垣(車道から)
京兆館 f4176

@ けいちょうだて A住所:三戸郡三戸町同心町金堀 C形式:平城  D比高:ーm E現況:田畑
F遺構等:郭・説明板 G時代/人物:戦国期/南部氏 H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:道沿いから2分
J撮影・訪問時期:2025年04月  
国道4号線(パイパス)が三戸町の中心部横を越え、熊原川を渡ってすぐの道に左折し坂を下った左手に説明板があり、その横に下への小道があります。館跡は畑になっていて遺構は無い感じです。

築城時期、築城者は不明ですが、三戸城の惣門の一つの沼尻惣門を守る為の館っであるようです。江戸初期には岩館右京亮義矩の居館であったとされます。右京亮を中国の官職名で言うと京兆となるため、京兆館と言われるようです。義矩は盛岡藩初代藩主南部利直(南部家27代当主)が寛永九年(1632年)に亡くなった後に殉死しました。

説明板      館跡遠景

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