道案内  |
八戸自動車道の一戸インタから国道4号線を北上して約36km先、あるいは、八戸自動車道の南郷インタから県道47号線で約16km先で国道4号線に入り、剣吉の信号から国道4号線を南下して約15km先、三戸パイパス松原の信号から県道45号線に入り、約800m先の信号で右折し県道258号線に入ります。約1km先の信号で左折し県道134号線にはいります。三戸町役場を左手に見て、約250m先で左折し坂を登って行きます。約1km先が三戸城本丸広場です。
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訪城備忘録 |
車で本丸広場まで登れます。ただ、本丸まで登ると麓から大門までの遺構を見逃してしまう可能性はあります。(私はやってしまいました^^;) 加えて、桜祭りの準備で露店の屋台が並んでいてこれを避けて写真を撮るので歪な写真になってます。^^;
三戸城は熊原川と馬淵川に挟まれた独立の山に見える河川段丘にあります。三戸町は国道四号線から行くと少し下りますので盆地のような感じになります。その真ん中に浸食で残ったところという感じです。車道で登ると大御門跡、本丸まで登れます。大御門は石垣を伴う大きな枡形を持つ大きな門であったようです。江戸初期で南部政直邸の部分に城郭風の民族歴史資料館と模擬天守風の温故館があります。令和四年(2022年)、国史跡に指定されましたが、その際、将来的に歴史上なかった天守風の温故館は取り壊しを要請されています。本丸はL字形で北に伸びています。御三階櫓跡は標識のみでした。北側に一段下がった谷丸があります。
本丸の東へ進むと鶴池、亀池があります。往時は水堀の役目であったようです。さらに下りると鍛冶屋御門があります。大規模な石垣作りの門跡です。
本丸まで登る車道沿いに石垣の痕跡が残り、見上げると斜面にも石垣の痕跡が見えます。ここに綱御門が復元されていますが見落としました。見落としは温故館の北側に残る空堀も見逃しています。さらに、三戸町の龍川寺に表門が移築され、法泉寺には搦め手門が移築されていますが、これも見落としました。今回は来れただけで満足してしまいました。^^;
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城址碑
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天文八年(1539年)、南部家26代当主の晴政の時にそれまでの本拠地の聖寿寺館(本三戸城)が焼失し、三戸城に城を築いて移ったとされます。ただ、近年研究では、南部氏の領地拡大と大規模な城郭の必要性から築城されたようです。天正十年(1582年)、晴政と子の晴継が相次いで亡くなったため、田子信直(たつこのぶなお)<晴政の叔父の子>が南部家26代当主の座を継ぎました。天正十八年(1590年)、小田原の役に続く、奥州仕置の中で、豊臣秀吉より南部信直は領地を安堵されました。天正十九年(1591年)、九戸の乱後に蒲生氏郷が大改修した九戸城を受け取り、福岡城と改称し居城を移しました。さらに、寛永十年(1633年) 信直の子の利直が盛岡城を築城し本拠を移しますが、この間も三戸城は城代が居住し維持されましたが、貞享元年(1684年)、城代廃止となり、代官所が設置されました。三戸城は一応廃城という事になりますが、盛岡藩としてはその後も管理・維持したようです。
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