道案内  |
国道4号線の寒水の信号から国道394号線に入ります。約2km先で国道はクランク状で進みます。さらに約200m先が七戸町役場前で国道は左折します。約200m先の信号で国道は右折で、約150m先を右折し、約250m先の右側が柏葉公園です。
あるいは、天間林道路(国道45号線)の七戸インタから国道394号線を約6.5km先が国道4号線の寒水の信号です。
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訪城備忘録 |
日没での訪城でした。本丸・二の丸の本城は公園、神社となっていて、二の丸は非常に広い空間になってます。二の丸は現在は柏葉公園ですが、周囲には土塁がありますが、どこまでが遺構なのかわかりません。二の丸には江戸期は代官所が置かれていたようです。二の丸の北側は深い谷状でその先が貝ノ口という台地で外郭との事です。その一角に姫塚がありますが。昔の悲恋物語で、姫が自ら命を絶ち、結ばれなかった人と塚を並べて眠るという事らしいです。 その先が北館で、北館と二の丸の間と一部二の丸西下まで水堀があります。この上、二の丸土塁は遺構のようです。
道を挟んで反対側に西館、外館があり、西館の下に宝泉館、下館があります。西館と宝泉館の間には堀切状の空堀が明瞭にあります。下館は今は改良中のようで今後、西館含め整備されていく感じです。
二の丸と貝ノ口の間の入口には東門が復元されています。 この門は発掘調査に基づき復元されたようです。 また、行けませんでしたが、町内の青岩寺には門が移築されているようです。元々は櫓門だったものですが老朽化のため平の門になっているようです。
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公園入口の碑
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築城時期、築城者は定かではないようです。長く工藤氏がこの地を支配したと言われるようです。建武二年(1335年)、南部師行(根城南部氏の祖)の弟の政長に七戸を与えられとあるようです。政長は兄の師行とともに南朝の有力武将であったようです。根城南部政光は家督を長経に譲り、自身は七戸城を隠居城にしたようです。応永三十四年(1427年)、政光没後は子の政慶が後を継ぎました。天正十九年(1591年)、九戸政実の九戸の乱に七戸城主の七戸南部家国は九戸氏に付き、家国は政実とともに処刑され、七戸南部氏は途絶えて、翌年の秀吉の破城令で七戸城は廃城になります。正保四年(1647年)、盛岡藩初代利直の子の重信が七戸氏の名跡を継ぎました。寛文四年(1664年)、重信は盛岡藩二代目となったため、七戸は重信の子の英信が継ぎました。英信の系統は七戸には住んでおらず、七戸には代官所が置かれたようです。明治二年(1869年)、七戸藩が成立しますが、まもなく廃藩置県で廃藩となりました。
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