陸奥 大浦城



ファイルNo4162


              中学校の裏手              

@ おおうらじょう 
  別名 八幡城・賀田城・西根城 

A住所:弘前市五代早稲田
B目標地点:津軽中
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公共施設・田畑・宅地

F遺構等:郭・堀・土塁・碑・説明板・(移築門)
G時代/人物:戦国期/南部氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  8分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  
道案内 

東北自動車道の大鰐弘前インタ(おおわにひろさき)を下り、国道7号線を弘前市内へ進みます。約10km先、運動公園入口の信号(高架です)で左折し県道109号線に入ります。約2.5km先の信号で右折し県道260号線に入ります。途中から県道3号線になりますが、道なりで約2.5km先が弘前城追手門通り東の信号です。 県道3号線を左手に進みます。約200m先でクランク状に曲がります。追手門通りの信号を右折になります。約2km先、岩木橋で岩木川を渡ります。約3.5km先の信号で右折します。約150m先の左手に城址碑と説明板があります。津軽中学の裏手(西側)に大きな堀状の地形が残ります。

訪城備忘録

主郭は中学校の敷地となり、周囲は宅地や田畑になって遺構は少ないように見えます。しかし、中学校の西側の道沿いには土塁の痕跡があり、中学校の裏手(北側)は大きく窪んだ堀状の地形が残っていて、中学校の敷地に土塁と思われる盛り上がりが見えます。

城址碑
歴史

最初は西根城と言う館があったようです。文亀二年(1502年)、稲里城の南部光信が築き、子の盛信を入れて大浦城としたようです。光信以後、盛信が継ぎ、その後、政信、為則、為信(為則の養子)と続きました。為則は南部氏からの独立を目指し、元亀二年(1571年)、南部氏の津軽の拠点である石川城を攻略し、その後も津軽内の敵対城郭を攻略していきました。天正十九年(1591年)、豊臣秀吉より津軽の所領を承認されました。この頃、為信は大浦姓から津軽姓に改名しているようです。文禄三年(1594年)、為信は大浦城から堀越城に拠点を移しました。元和元年(1615年)、一国一城令で廃城になりましたが、西の郭には弘前城の火薬庫が置かれたようです。

中学の西側の土塁  中学の裏手の堀状と土塁状
  
説明板
堀形状

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