陸奥 堀越城



ファイルNo4160

復元整備され土の中世城館が蘇った城跡

               主郭堀と土橋             

@ ほりこしじょう 
  別名  

A住所:弘前市堀越川合〜堀越柏田
B目標地点:国道7号線堀越の信号
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公園・田畑

F遺構等:郭・土塁・堀・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/津軽氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  

道案内 

東北自動車道の大鰐弘前インタ(おおわにひろさき)を下り、国道7号線を弘前市内へ進みます。約5km先、堀越の信号の手前両サイドが城跡です。左手に主郭、二の郭、三の郭の一部があり、右手にガイダンス館、駐車場、三の郭の一部があります。堀越の信号を右折し約200m先を右折、クランク状に約200m行くとガイダンス館です。

訪城備忘録

令和二年(2020年)に整備完了したとの事で、整備前の写真を見ると遺構は残ってますが、整備されて土塁の鋭角な斜面、高さ、堀の深さなどが明瞭になった事で、戦国末期の平城が蘇ったという感じです。残念ながら、国道7号線で城跡は分断はしていますが、遺構は良く残っていると言えます。ガイダンス施設(旧石戸谷住宅・移築)は国道の東側になりますが、主郭、二の丸は西側になり、国道7号線を越えるのはトンネルで繋がってます。

城跡にはガイダンス施設側から主郭に向かうか、主郭北側外堀越しの休息施設から入りますが、今回は休息施設側から入りました。城跡は主郭周囲には土塁が巡り、その外側を内堀が巡ります。主郭北側から西側は二の郭で大きく土塁がL字に横たわります。整備されて、高く、土塁の斜面も鋭角です。その外側は外堀です。この外堀、けっこうな幅があります。主郭の東側は国道7号線に分断はされていますが、三の郭があります。三の郭の北側は外堀の間にもうひとつ堀が二重の堀、二重の土塁になってます。三の郭と二の郭の境は現在木橋が架けられ浅い堀が区切ってます。二の郭の北西側には土塁でクランクした虎口があります。枡形虎口と言えますかね。

主郭には二の丸郭西側か三の郭東側から入ります。二の郭側からは内堀を土橋で越えます。三の郭側からは橋で渡ったようです。主郭には現在は熊野神社があり、主殿大広間の建物跡は柱位置で再現されています。

主郭東側の三の郭の南側、こちらも二重の堀と二重の土塁があります。そこに虎口があるんですが、構造的に面白いです。三の郭から最初の土塁(三の郭南土塁)の開口部を抜け、右折し土塁と堀の間を土塁沿いに進み(説明板には犬走と表現されてました。)左に曲がり土橋で第一の堀を渡り、第二の土塁(中土塁)の開口部を越え、外堀をまた土橋で越えるというルートです。土橋を越えると城道になっていたようで外部と繋がるようです。

ガイダンス施設側には三の郭の北側二重堀の一部が残ります。

城址碑
歴史

建武四年(1337年)、曾我貞光が堀越楯を築いたとされるようです。戦国期に入りまでその後の堀越楯(城)は文献などには出てこなかったようです。元亀二年(1571年)、大浦(津軽)為信は堀越城から石川城を攻めたとあるようで、この頃には大浦城を居城としていた大浦(津軽)為信の勢力下になっていたようです。天正十九年(1591年)、大浦為信は豊臣秀吉から津軽の領有を認められ、南部氏から独立を果たしますが、秀吉の書状には為信を南部右京亮と記しているようです。この期に為信は大浦姓から津軽姓に改名しているようです。文禄三年(1594年)、為信は大浦城から堀越城に拠点を移したとされます。慶長十二年(1607年)、為信は京都で亡くなりますが、後を継いだ二代信枚は、慶長十六年(1611年)に高岡城(弘前城)を築城し、堀越城から移りました。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。

主郭内堀と土塁       南側の二重堀の土塁
現地案内板より
  
北側外堀と土塁
北側外堀と土塁
北側の二重堀と土塁
北側二重堀の内側の堀
二の郭から主郭土塁
主郭内堀
二の郭と三の郭の境の堀と二重堀構成の土塁
主郭内堀と土塁と土橋
主郭土塁と虎口
二の郭から主郭土塁と内堀、北側二重堀土塁遠望
二の郭虎口周辺土塁と外堀
二の郭虎口
二の郭掘立柱建物跡
二の郭西側土塁
主郭南側土塁と内堀
主郭虎口と土橋
主郭内土塁
主郭大広間跡
三の郭の掘立柱建物跡から主郭東門跡方向
南側二重堀の堀と土塁
南側二重堀の堀と土塁、三の郭からの開口部と犬走り
南側二重堀の堀と土塁(外堀から)
三の郭東地区土塁
三の郭東地区堀<遺構ではなく、五箇村堰>
旧石戸谷住宅(ガイダンス施設)

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