出羽・羽後 脇本城



ファイルNo4155


             大土塁           

@ わきもとじょう 
  別名  

A住所:男鹿市脇本脇本七沢
B目標地点:
C形式:山城  D比高:110m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・畝状堅堀・土塁
G時代/人物:戦国期/安東氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  中腹の案内所から10分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  

道案内 

秋田自動車道の昭和男鹿半島インタで下り、高速入口の信号を直進して国道101号線に入ります。約8km先、国道101号線は棒沼台の信号で右折します。さらに約14km先、国道沿いの右手に脇本城跡の大きな看板があります。その先で右折し山道を登ります。約600m先、中腹に脇本城跡案内所があり、車は数台停められます。

訪城備忘録

この日は雨の城巡りです。傘をさしながらの散策ですが、この城、城跡にいるという感覚が薄いです。保全の努力には敬意を称したいですが、芝生公園風の丘になってしまい、城跡にいるという感覚が乏しいです。これは江戸期の地震の影響で生鼻崎(おいばなさき)側先端が700mほど海底に崩落したという事もあるでしょうし、長い年月で郭の切岸がなだらかな斜面になってしまったというような事もあるのでしょうかね。

とは言っても、内館(うちだて)<=主郭>の土塁は高く、長いですし、郭も広いです。内館背後の尾根付近の土塁囲みの郭。それを巡る堀などは明瞭と言えます。
また、日本海を望む眺望は良く、晴れた日ならばすごく見応えのある景色だと思います。

今回は主要部のみの訪城で史跡指定の範囲はさらに広いものですが、雨と時間で主要部以外は行けてないです。

歴史
国道沿いの入口と碑






伝承に、元弘四年(1334年)、鎌倉北条氏系の勢力が築いたとされるようです。 康正二年(1456年)、安東政季(まさすえ)が支配したようです。元亀元年(1570年)、安東愛季(ちかすえ)が檜山安東氏、湊安東氏を統一、その支配としました。天正五年(1577年)、家督を業季(なりすえ 天正十年(1582年)に病死)に譲り、愛季は脇本城を隠居城として大改修したとされます。天正十五年(1587年)、愛季が死去し、家督は次男の実季が継ぎました。天正十九年(1591年)、実季は安東姓から秋田姓に改称しました。脇本城はこの頃には廃城になったようです。その後、慶長七年(1602年)秋田実季は常陸穴戸に移封となってます。


内館(主郭)遠望     土塁(館神堂)    
眺望
現地案内板より
生鼻崎からの眺望
生鼻崎側から
  
登り口(中腹)     案内板・説明板
登城道(天下道)から内館(主郭)を見上げる
登城道(天下道)から館神堂方向を見上げる
空堀
空堀
内館から生鼻崎郭群遠望
生鼻崎郭群と館神堂の間の堀切 
内館と大土塁
 内館から館神堂方向
生鼻崎郭群方向
内館(主郭側)の大土塁
大土塁
内館大土塁下の井戸二か所
内館/城主屋敷
生鼻崎郭群遠望
大土塁から内館(主郭側)と館神堂
大土塁
大土塁と内館城主屋敷
大土塁
大土塁
生鼻崎郭群土塁
生鼻崎郭群から内館(主郭側)と空堀遠望
内館(主郭側)と大土塁遠望
館神堂(土塁に囲まれている)遠望
生鼻崎郭群土塁  
生鼻崎郭群の現先端側
生鼻崎郭群
生鼻崎郭群の堅堀
生鼻崎郭群
生鼻崎郭群
生鼻崎郭群土塁
生鼻崎郭群と堀切
生鼻崎郭群と堀切
館神堂(土塁に囲まれている)
館神堂側土塁
館神堂側土塁
館神堂
館神堂側空堀(馬乗り場への通路?)

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