道案内  |
秋田自動車道の昭和男鹿半島インタで下り、高速入口の信号を直進して国道101号線に入ります。約8km先、国道101号線は棒沼台の信号で右折します。さらに約14km先、国道沿いの右手に脇本城跡の大きな看板があります。その先で右折し山道を登ります。約600m先、中腹に脇本城跡案内所があり、車は数台停められます。
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訪城備忘録 |
この日は雨の城巡りです。傘をさしながらの散策ですが、この城、城跡にいるという感覚が薄いです。保全の努力には敬意を称したいですが、芝生公園風の丘になってしまい、城跡にいるという感覚が乏しいです。これは江戸期の地震の影響で生鼻崎(おいばなさき)側先端が700mほど海底に崩落したという事もあるでしょうし、長い年月で郭の切岸がなだらかな斜面になってしまったというような事もあるのでしょうかね。
とは言っても、内館(うちだて)<=主郭>の土塁は高く、長いですし、郭も広いです。内館背後の尾根付近の土塁囲みの郭。それを巡る堀などは明瞭と言えます。
また、日本海を望む眺望は良く、晴れた日ならばすごく見応えのある景色だと思います。
今回は主要部のみの訪城で史跡指定の範囲はさらに広いものですが、雨と時間で主要部以外は行けてないです。
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国道沿いの入口と碑
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伝承に、元弘四年(1334年)、鎌倉北条氏系の勢力が築いたとされるようです。 康正二年(1456年)、安東政季(まさすえ)が支配したようです。元亀元年(1570年)、安東愛季(ちかすえ)が檜山安東氏、湊安東氏を統一、その支配としました。天正五年(1577年)、家督を業季(なりすえ 天正十年(1582年)に病死)に譲り、愛季は脇本城を隠居城として大改修したとされます。天正十五年(1587年)、愛季が死去し、家督は次男の実季が継ぎました。天正十九年(1591年)、実季は安東姓から秋田姓に改称しました。脇本城はこの頃には廃城になったようです。その後、慶長七年(1602年)秋田実季は常陸穴戸に移封となってます。
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