出羽・羽後 秋田城



ファイルNo4153


            外郭東門            

@ あきたじょう 
  別名  

A住所:秋田市寺内大畑
    

B目標地点:
C形式:平山城(古代城柵)D比高:20m 
E現況:史跡公園・宅地・公共施設

F遺構等:郭・復元門・復元厠など・説明板
G時代/人物:奈良期/ーー氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2025年04月

  

道案内 

秋田自動車道の秋田中央インタを下り、県道62号線を進みます。約5.5km先が秋田駅ですが、その手前で県道62号線は地下道に入ります。地下道を約2.2km先で出口です。出口から約300m先の山王十字路の信号で右折し県道54号線に入ります。約4.2km先の高清水公園の信号を左折します。約800m右手が秋田城跡史跡公園の駐車場です。秋田城跡歴史資料館にも駐車場があります。

訪城備忘録

けっこう強い雨の中の訪城でしたが、史跡公園になっているので道などは歩きやすいです。東北は古代城柵の史跡が多く、門・土塀などが再現(復元)されている所も多いです。秋田城は東北地方ではもっとも最北の古代城柵です。門・土塀や厠、井戸などが再現されています。ブラタモリで紹介された古代の水洗トイレが際立ってます。(笑)


歴史
政庁のジオラマ




天平五年(733年)、出羽柵として築かれたようです。 天平宝字四年(760年)に秋田城と改称され、改修もなされたようです。元慶三年(879年)、蝦夷に襲撃され秋田城は破壊されますが、藤原保則が再建しましたが、10世紀半ばには廃城になったようです。城は廃城になりましたが、「出羽城介」、「秋田城介」という官職名は残り、特に「秋田城介」は北方を守る役職名として使用されていました。鎌倉期は安達氏が補任される事が多かったですが、戦国期に入り、織田信長の嫡男信忠も天正三年(1575年9に「秋田城介」に補任されました。


       政庁東門   政庁の柱配置復元
  
政庁東門
外郭東門
外郭東門と大路
厠(古代の水洗トイレ)
厠(古代の水洗トイレ)
鵜ノ木地区建物跡群
井戸 
古代沼
外郭東門
湊城 f4154
説明板
@ みなとじょう 
  別名  

A住所:秋田市土崎港中央3丁目
    

B目標地点:神明神社
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:神社・宅地

F遺構等:関連碑・標識・説明版
G時代/人物:戦国期/安東氏
H満足度:

I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分


J撮影・訪問時期:2025年04月

秋田自動車道の秋田北インタを下り、県道72号線に入ります。約5km先の野村の信号で右折し県道56号線に入ります。約2.5km先の土崎臨海十字路で右折し国道7号線に入ります。約1.2km先の土崎消防署入口の信号で右折し県道161号線に入ります。約300m先の右手が土崎神明神社です。説明板は神社の隣の土崎街区公園の中、県道沿いにあります。公園には湊安東氏の顕彰碑もあります。神明神社入口には城跡を示す標識が立っています。


築城時期、築城者は不明ですが、津軽を本拠とした安東氏の一族が秋田郡に進出し上国安東氏となり、津軽に残った一族は下国安東氏(後の檜山安東氏)となりました。応永二年(1395年)、安東鹿季が入って湊氏と名乗ったようです。檜山安東氏である安東愛季(ちかすえ)は元亀元年(1570年)に檜山安東氏、湊安東氏を統一し、愛季は湊城に入りました。子の実季の代の天正十七年(1589年)、湊氏の十代当主茂季の子の通季が反乱を起こしますが、実季は鎮圧し、拠点を湊城に移しました。慶長七年(1602年)、安東氏(秋田氏)は常陸宍戸に転封し、代って佐竹義宣が二十万石で入り湊城を居城としましたが、手狭であったため、慶長九年(1604年)に久保田城を築城し移り、湊城は廃城になりました。

神明神社入口の城の標識     湊安東氏の顕彰碑
神明神社

近くの城・関連の城: