道案内 ←登城口(長徳寺) 城跡は城山 |
北関東自動車道の都賀インタを下り、右折して県道2号線に入ります。4.5km先の信号で国道298号線に(ほぼ直進で)入ります。800m先の工業団地入口の信号で右折します。道なりに1.5km先の工業団地東の信号で左折します。700mほどいったん下がり、右折し、突き当りを再び右折して300mほど先を左折、東北自動車道のカードをくぐり、坂道を200mほど登ったところが長徳寺です。(開山不動尊の標識があったらそれより200mほど北側の路地です)
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訪城備忘録 |
長徳寺に縄張り図付の説明板があります。西方城の南側、開山不動尊の上には二条城という単郭に近い城跡もあるようですが、西方城の後に行って見ました。入り口が良く分からず断念しましたが、民家の前の小道を歩いて行ってガードをくぐっていくようです。
さて、西方城ですが、寺の裏手から標識に従って登るます。途中から竪堀を登っているようです。この竪堀、折れが入っていて、元々、堀底道だったんかな? 尾根まで登ると北の郭下が堀切状でありながら北に突出した四角の小郭が突き出ていて、その外には、堀があります。説明板には馬出しとありましたが、なんとなく違和感はあります。尾根は南に向かって北の郭、三の郭、二の郭、主郭と続きますが、各郭とも非常に大きな郭であり、周囲を土塁が巡り、各郭間には枡形状の通路、堀切、土橋などが残ります。主郭を南に下りると南郭、西郭(今は消滅)、東郭に接続する虎口が有り、交差する土塁の重なりがいい感じです。南の郭も広く、東へ降りるルートには方形の水の手が残り、その下に枡形虎口を持つ、これも広い東の郭がありました。下野名門の宇都宮一族の城であり、境目の城で軍事的にも重要拠点だったんでしょう、広い郭、各郭間のしっかりした堀や虎口、主郭南下の折れを多用した虎口、なかなか興奮する城跡でした。
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麓の長徳寺にある説明板
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築城時期は不明のようです。永仁元年(1293年)に宇都宮景綱の三男の景泰が築き、西方氏を名乗り、城は西方氏の居城として、宇都宮氏の境目の城として機能したようです。戦国に入り、北条氏の勢力が下野まで伸び、天正十三年(1585年)には北条氏に臣従した皆川広照は西方綱吉が城主の西方城を攻め、攻略しました。天正十六年(1588年)に佐竹義重に支援を受けた宇都宮国綱が西方城を奪還しました。天正十八年(1590年)に小田原北条氏は豊臣秀吉に破れ、宇都宮国綱は秀吉に所領を安堵されましたが、慶長二年(1597年)に宇都宮氏は改易となり、西方城もこの頃廃城になったと思われます。
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