道案内 |
常磐自動車道の日立南太田インタを下り、国道6号線をひたちなか、水戸方面に進みます。4.2km先の二軒茶屋の信号を左折し県道62号線に入ります。1.7km先の信号で左折し県道358号線に入ります。1.5km先の内宿十字路の信号を越え、左手の長松院を越えると左に曲がります。200m先の丘陵下で左手に曲がり道なりに300mほど進むと左手に駐車場があり、さらに道なりに丘陵の反対側に下りていくともうひとつの駐車場があります。
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訪城備忘録 |
額田城ほど空堀は深くは無いものの、主要郭の三つの郭を巡る空堀は幅もあり、深さも3mほどありなかなか見応えがあります。説明板にV郭と書かれた郭が一番大きく一辺が200mほどありような大きな郭で、西側にL字に土塁が残っています。V郭と御城(U郭)の間の土橋も明瞭です。御城も一辺100mほどありそうで、V郭ほどではないにしてもやはり広い郭です。周囲を土塁が巡ります。さらに空堀を挟んで遠見郭(T郭)が丘陵端にあります。半分は削られてしまったのかコの字に土塁が残り明瞭です。北側の道沿いには堀跡なんでしょうか池があり、その反対側の竹やぶには土塁らしき痕跡もあります。総構の土塁の跡なのかもしれません。訪れた時は紫陽花の季節で北側の空堀に紫陽花がたくさん咲いていました。城といえば桜ですが、紫陽花も大輪で見栄えがするなぁ^^ この城、主要部は良く残り、空堀は幅、深さもあり、郭も大きく、茨城らしい城という印象です。
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説明板
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築城時期は定かでは無いようですが、藤原秀郷の末裔とされる道盛が小野崎を名乗り、孫の道房(満胤の次男)が石神小野崎氏の祖のようです。本家は道春で山直城(山尾城:日立市)を居城し、道業の孫の道重から額田小野崎氏が発したようです。この城が史料に登場したのは永享四年(1432年)であるようです。小野崎氏は佐竹氏の重臣でありますが、天文四年(1535年)に石神小野崎道長は佐竹氏に背き一時城を追われましたが、永禄期初期(1558年)に許され復帰しています。慶長七年(1602年)の佐竹氏の出羽秋田へ転封に従い石神小野崎道広も秋田に移り城は廃城となりました。
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