道案内 ←登城口のひとつ ←城跡 |
国道299号線で小鹿野町中心部を越えて黒海土バイパス前の信号を右折し県道37号線に入ります。2.3km先の宮戸の信号で左折し県道71号線に入り、約5km先の塚越の信号で左折し県道282号線に入ります。700m先で合角ダムを渡り、ダムから1.5km先右手普薩寺前で左折し川を渡ると倉野ふるさと館です。この裏に登城道の標識があります。ただ、この登城道は最短距離のようですがやや危険で、山の反対側の←観音院から沢沿いの道を牛首峠まで登り、右手に登っていく道があり、この方が安全です。
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訪城備忘録 |
以前テレビでやっていた城です。のん兵衛の亭主(城主)が酔いつぶれて寝ていた時に武田勢が攻めてきたため、奥方が先頭に立って撃退したという話が残る城だそうです。倉野ふるさと館という施設の裏手から登りました。しかし、この道は岩山の細尾根を登るのですが、途中、細いロープは設置してあるも、急斜面で周囲は崖というような箇所が三箇所ほどあり肝を冷やしました。岐阜の東殿山城以来かな?こんな登城道は・・・。北側から南側に登って来て東西の尾根上に到達、左手(東側)に進みます。ここは城山三滝とよばれる滝になっていますが、訪城時には水は流れてませんでしたが、とにかく尾根が細尾根で、まるっきり崖です。この三滝の上滝沿いに登って行くと城跡です。遺構はU字の稜線に囲まれた谷部に三段ほどの郭があり、ここが主郭のようです。ここを下って行くと牛首峠に至るようです。主郭をU字に囲む稜線が冬場の風を防いでいるようです。北側稜線が八幡郭という細長い郭で、北側に土塁があり、この上に城址碑があります。南側の稜線は出郭という長方形の郭があります。主郭は背後のピークは矢倉であったようです。城域周囲も断崖で、これでは武田もそうそう攻められまい・・・。
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城址碑
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築城時期は定かではないようですが、1400年代後半に長尾景春の拠点のひとつといて築城されたようです。永禄四年(1561年)に北条氏の南図書助が日尾城を攻めたとされ、この頃より北条氏の城となり、諏訪部遠江守定勝が入ったとされます。永禄十二年(1569年)に武田信玄の家臣の山県氏の軍に攻められましたが、城主の定勝は客人と酒を飲み交わし泥酔状態で寝込んでしまったため、定勝の奥方が武田勢を追い払ったという逸話が残ります。天正十年(1582年)の武田氏の滅亡まで武田氏との抗争は続きました。天正十八年(1590年)には小田原城攻めの際、鉢形城落城とともに日尾城も廃城となりました。
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