武蔵 忍城



ファイルNo2047


                       模擬天守     

@ おしじょう 
  別名 

A住所:行田市本丸
B目標地点:郷土博物館
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・宅地

F遺構等:郭・堀・土塁・模擬天守・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/成田氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  1分

J撮影・訪問時期:2009年02月

  

道案内 

国道17号線バイパスの持田インタを下り、国道125号線を行田市内に入ります。2.1km先が城西の信号で、さらに、800m先、左が郵便局の十字路を右折すると城跡本丸です。
 
訪城備忘録

遺構はあまり残っていないと聞いていたので、過去寄れたんですが、寄らなかった城跡でした。しかし、「のぼうの城」を読んで俄然行きたくなりました(笑) 残念ながら、遺構はあまり残っておらず、本丸には史実にはない模擬天守が建っています。水城公園の池が浮き城をイメージさせてくれます。探し出せませんでしたが、石田堤の痕跡や忍城の二重櫓跡の碑なんかもあるようです。また、加須市には黒門が移築(総願寺)されているとの事です。

模擬城門
歴史

文明十年(1478年)に成田顕泰が築城したとされます。(一説には成田正等<顕泰の父>の築城、あるいは、親泰<顕泰の子>の築城ともされます) 扇谷上杉氏、ついで、北条氏に攻められますが落城していません。永禄二年(1559年)に上杉謙信が関東進出の際に時の城主の成田長泰も謙信に従いますが、永禄四年(1561年)の謙信の小田原攻めに参戦した長泰は、鶴岡八幡宮で謙信に侮辱され離反、天正二年(1574年)に謙信に攻められますがこの時も落城しませんでした。天正十八年(1590年)の豊臣氏の小田原攻めには城主の成田氏長は小田原城に詰め、留守居らで籠城し石田三成の水攻めを耐え抜きました。徳川家康が関東に移封後は松平忠吉が十万石で入りました。寛永十六年(1639年)には阿部忠秋が五万石で城主となり、忍城を拡張しました。元禄七年(1694年)に忠秋の孫の正武のときに十万石となりました。文政六年(1823年)に阿部氏が白河へ移封となり、松平忠堯が桑名から入り、以後、明治維新まで続きました。

藩校進修館表門(移築・伝承)                   土塁      
夜間模擬天守                三重櫓跡碑
  
丸墓山古墳(石田三成陣)              水城公園(外堀跡)  

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