道案内 ←登城口 |
国道145号の東吾妻町役場を過ぎて500m西進むとJR吾妻線の陸橋手前で左に岩櫃城の案内板があり、ここを左折し、道なり右に進みます。陸橋下をくぐり、吾妻線を越え、案内板に従い、岩櫃山、「リゾートホテルいわびつ」方面に向かって進みます。1.8km先で斜め左に入り、最後は左折し岩櫃山登山口の方向に進むと城跡登城口です。
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訪城備忘録 |
城跡は岩櫃山より比高で200mほど下の東尾根に展開しています。吾妻と書いて、「あがつま」と読むんですねぇ。岩櫃山登山口休憩所の前に駐車場があります。休憩所の中には城史案内、周辺案内などあり、親切です。
休憩所そばの登城口から登り始めると5分程度で中城に着きますが、その手前には空堀が横たわり、右手は二の丸からの大竪堀に繋がっていて、左手は200mほどまっすぐな横堀ですが、その先は折れて竪堀状に落ちていました。中城は藪状態で遺構らしいものは判別つかない感じです。ただ、中城から主要部に登る階段がまっすぐに続いており、これは竪堀の跡のようです。階段を登りきって右手に入っていくと二の郭下の小郭があり、その先で大竪堀を見ることができます。主要部の南下には横堀が巡り、横堀から竪堀が南斜面に何条かあります。主郭(御殿)は細長く、しゃもじのような形です。一段高い箇所に説明板・碑があります。ここの北側が急斜面で竪堀など防御施設はまったくないようです。主郭の西側の南側下にも横堀が明瞭ですが、夏場は藪状態で見通しが悪いです。主郭(御殿)の西端斜面を登ると尾根が続きます。尾根に登ったところは若干平場になっていて郭のような気もしますが、多分違いますね。その後、進むと、細い尾根が続き、堀切状の箇所を越えると岩櫃城の斜面に取り付くことになります。登城道からは主郭も近く、遺構も規模が大きく、見学しやすい城跡です。
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登城口
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鎌倉初期、建久年間に藤原系の吾妻太郎助亮が築城したとされ、二代が助光とされるが承久の乱で戦死したとされる。一族の下河辺行家が吾妻氏を継承したとされます。二代が行重、三代が行盛と継承しましたが、貞和五年(正平四年:1349年)に里見氏と戦い戦死しました。行盛の嫡子の千王丸は斉藤氏の保護を受け成長し、斉藤憲行と名乗り、延文二年(1357年)に里見氏を破って岩櫃の地を奪還しました。岩櫃城は応永十二年(1405年)に憲行が築城したともされます。斉藤氏六代の憲広(基国)で、永禄六年(1563年)に武田信玄の命で吾妻に進行した真田幸隆に攻められ落城しました。真田氏の城となった岩櫃城は上州における真田氏の前線の城となり、天正八年(1580年)の沼田城攻略に繋がりました。天正十年(1582年)に武田氏が滅亡後も真田氏の城として機能し、江戸期に入り、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。 <休憩所案内板参照>
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